戦後75年というけれど・・7

今年93歳になる戦争体験者の久保沢さんへのインタビュー。終戦により、少年兵となって出世する夢が無惨に砕け散ったことが、今となっても悔しい思いであったことが語られた。

【そして終戦】

昭和20年7月末、ようやく天津の街にたどり着いて、中隊長からねぎらいの言葉をいただきました。10代の砲兵ひとり取り残す命令を下した准尉の軽はずみな行動をたぶん謝罪したかったのでしょう。天津駅で毎日待っててくれたようでした。

とにもかくにも、中隊長への報告終了により、私の空爆残骸牽引車の貨車輸送作戦は目標通り任務完了し、やっと肩の荷がおりました。


中隊長から「苦労かけたな。県人会に行けば、ごちそうが待ってるはずだから」と言われました。天津には、中国に移り住んだ日本の各県人会がたくさんあったようです。ところが残念なことに、青森県人会はなく、東北の県人会は福島県人会と山形県人会のみ。多くは九州出身の県人会のひとたちでした。


終戦1か月前。天津の街は戦時中でありながらも平和で「鐘淵紡績(現カネボウの工場もあり、多くの若い中国人の女性が働いていました。私たちは、女子工員の寮の空宿舎を借りて過ごしてました。寮には各兵科の機材担当者30名ほどが寝泊まりし中国人が食事を作ってくれました。毎日、寮から徒歩20分ほどの自動車修理工場まで通いました。


日曜日に兵士たちは出身地の県人会にそれぞれ面会に行っていたようですが、県人会がなかった私は気の進まない映画を観るか、退屈なまま日曜日を終えるかのどちらかでした。

また、近くには日本人小学校があり毎日こどもたちのはしゃぎ声が周りに響き、戦争中とは思えないそれはそれはのどかな天津の平和な日々でした。

「八月いっぱいに、対ソ連軍との戦争に備えて北京に集結せよ」との命令があったので私たちは、天津滞在中に北京北部の都市である張家口に向かう準備をしていました。


そんななか、8月15日、私は玉音放送を聞き、戦争が終わったことを知ったのです。


「日本はついに負けたんだ!」呆然としてしまいました。寮にいた兵士たちは「戦争が終わった。これで日本にやっと帰れる」と万歳したものです。

少年兵となって出世したい私の望みが儚い夢となり、消え去りました。人生の無常をしみじみと感じたものです。


それでも死なずに済んだ幸福を、次の人生のために生かそうという光明を見出し努力に掛けようと、自問自答しながら心の整理をつけるほかありませんでした。・・・つづく

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