戦後75年というけれど・・4
今年93歳となる戦争体験者の久保沢さんへのインタビューの続き。いよいよ戦地に向かって出発した時の話である。そして本日は終戦記念日でもある。
【北支派遣軍へ】注:北支とは今の中国北部のこと
昭和20年3月、陸軍野戦砲兵学校を卒業し、北支派遣軍に所属を命じられました。卒業生で北支派遣軍へは、福間君と私のふたりのみ。あとの卒業生は、関東軍、中支派遣軍(中国南部)、あるいは南方戦線へ。これからいよいよ前線へ・・・と別れ別れに散りました。
昭和20年3月11日千葉の下志津駅から下関まで、一昼夜汽車に乗り、下関に到着しても直ちに連絡船乗船とはいきませんでした。当時、日本の海軍力低下は暗澹(あんたん)たるもので本土近海まで米艦水艦が水上をあちこち動き回って制止できず、昼の連絡船運行は不可能でした。
なので、夜間の海上の時化(しけ)を狙って4,5日逗留し、ようやく関釜連絡船で韓国釜山に入りました。朝鮮半島を北上し鴨緑江という北朝鮮との国境にある河を渡り中国丹東(北朝鮮と接する国境の街)から満州鉄道となり、そこから万里の長城の起点である中国国境の山海関駅に到着。
右手に万里の長城の雄姿を見た時はいよいよ中国にたどり着いた万感の思いで胸がはじけました。
ちなみに、当時は、樺太の北限駅からこの山海関駅まで列車の切符が買えたそうです。
昭和20年4月1日のお昼過ぎ、ようやく北京駅に到着。駅の雰囲気にびっくり仰天したものです。なぜなら、駅員は全員日本人で制服制帽は日本国鉄そのままであり、外国の駅の感じはまったくなかったからです。
よくよく見たら客車貨車には、「華北交通」とあり満洲鉄道同様、日本国鉄の子会社が運行していたのでした。そして、直ちに北支派遣軍司令部へ案内されました。
あいにく司令官不在で先任参謀に陸軍野戦砲兵学校からの派遣申告をしました。参謀も自走砲に関して大変興味があり、性能について様々なことを聞かれました。
そして「我が方には未だ一門も配備されてはいないが、いずれ配備の節は、貴君らの充分なる技量発揮を軍としても期待大である」と言われました。
参謀との雑談のなかで、意外なことを聴かされました。「今度、大本営直轄で重慶占領作戦を開始する」と。一緒に雑談していた福間君と顔を見合わせました。
私たちが知っていたのは「日本軍は重慶を通り越して成都まで進出している」という情報だったからです。日本で聞いていた情報とまったく違っていることに驚愕でした。
が、何はともあれ、赴任地と所属隊を指示され、私は河南省南陽の戦車第三師団機動砲兵第三連隊四中隊に所属しました。北京から列車で河南省許昌まで南下し、そこから中隊駐屯地がある襄城という村まで38里(約150キロ)の道程を徒歩で2日間。ようやくたどり着きました。
しかし、その駐屯地には、火砲、牽引車などの車両は一切なく、小銃携帯だけの10人ほどの残留留守隊がいるだけでした。砲撃陣地は西方へ4キロほど行った岳のふもと。砲撃目標は岳の頂上を超えた先の飛行場滑走路の破壊。
その飛行場は被弾のためサイパン島まで飛行不能となった米軍の戦闘機であるB29の機体修理場所であり、そのB29の再びの空爆参加を阻止する狙いがありました。
ところが、わが軍には爆撃で滑走路を破壊できる飛行機がありません。砲撃目標は岳の長城を超えた飛行場。どう考えても届くはずはありませんでした。
私たちは早々に歩兵を動員し、飛行場の守備をしていた中国兵を追い払い、そこを私たちが占領したため以後、米軍戦闘機B29の発着は不可能となったのです。・・・つづく