戦後75年というけれど・・2
3年前に、自分の戦争体験を本にして自分の家族に残したいという思いで訪ねてきた久保澤さん。昭和2年生まれで今年93歳となるが、まだまだお元気で暮らしている。
当時、インタビューしながら家族向けに自分史を制作したのでだが、このnoteブログにも綴っていき、戦争体験者の生の声をお届けしたいと思う。
家族に語ってこなかった私の陸軍戦争体験
私の人生のなかで、最も鮮明に記憶に残っていること。それは、17歳18歳19歳の多感な時期の戦争体験の忘れ得ぬ記憶です。今の時世には想像もできない、そして有り得ない体験でした。90歳を迎えた今でもこの体験が私の人生の指針となっていると思います。記憶を辿(たど)りながら我が自分史として綴り、今現在の私の願いを載せておきます。
【私の生い立ち】
私は昭和2年3月28日、青森県八戸市大館村に五人兄弟の長男として生まれました。実家は小作人の農家。昭和初期の小作人といえば、本当に貧しい暮らしでした。幼くても朝起きれば農作業の手伝いに追いまくられ、しんどい思いばかりでした。
尋常小学校に入学したときは、農家を手伝わなくてよい勉強があり嬉しかったものです。そして私が10歳のとき支那事変が勃発し、父が出征することになりました。ちょうど、私が旧制中学の進学希望を強くもっていた時のことでした。
その当時、家は貧しすぎて旧制中学を受験するお金もありませんでした。見かねた親戚の人が、ある日父にこのような申し出をしてくれました。「学費は面倒見るから、息子を中学受験させろ」と。
それを聞いた父はその申し出を即座に断り私にこう言い放ちました。「もし他人様の恵みで中学を卒業したら、自分もお前も肩身の狭い一生となる」古い習慣制度などの社会構造に耐え忍んで精一杯生きてきた経験から、父は私に、自らの将来は自らが切り開くべきだという事を諭したかったのだと思います。
同時に私は「この貧乏な生活から絶対抜け出そう」という固い信念を胸に刻みこんだのでした。
昭和15年、高等小学校を卒業した私は地元の岩城セメントに入社しました。初任給は13円そこそこでした。当時の給料比較をすると、村長、学校長が100円くらい、学校教員で30円くらいだったと記憶しています。
意気揚々と入社しましたが、三か月で辞めてしまいました。
そして、より給料の良かった土木作業員の仕事に転職したのです。当時、高舘地区に陸軍の飛行場建設が始まり支那事変の特需が発生したのでした。
今度の給料は1日1円70銭。床屋の散髪代、映画館入場料、蕎麦一杯が15銭だったので、大変嬉しく、生まれて初めて大変な裕福感を味わったものです。
【志願兵として】
昭和18年、太平洋戦争真っ只中、私は農家の手伝いと土木作業の仕事に追われていました。そんな中、土木作業の同僚から「久保澤、志願兵を募集しているから、挑戦してみたら?」と声を掛けられました。
その言葉を受け、私は、千葉県四街道市にある「陸軍野戦砲兵学校」を第一志望として受験しました。当時、陸軍志願のなかで一番人気の学校で、倍率240倍の狭き門でした。
貧しいがために旧制中学に進学できなかった私のコンプレックスから彼らを見返したい気持ちが難関への挑戦を後押ししました。
幸運にも入学が許可され、昭和18年十12月、私は17歳。意気揚々と千葉に向かって、故郷八戸を後にしました。
陸軍野戦砲兵学校生徒隊第二期生第七区隊に編入され、45名のひとりとして自走砲の操縦射撃の軍技訓練を始まったのです。・・・つづく