戦後75年というけれど・・3
今年93歳となった戦争体験者の久保沢さんのお話の続きである。
家族には語らなかった戦争体験の話
【陸軍野戦砲兵学校での生活】
区隊同期生は、全国から集まった精鋭たちで半分くらいは自分と同じ境遇だったことに驚きました。なかでも、群馬、山梨、長野、岐阜などの本州中部地区からきたひとは、ほとんど山間地農村出身者が多く、旧制中学に進学できない若者たちでした。つまり家が貧しくて勉強したくても授業料が払えず、私と同様に、それならば少年兵として出世したいという意気込みで応募したのでした。
また、砲兵隊は前線ではなく後方部隊なので、死ぬ確率も少ないだろうという目論見もあり、倍率が一番高かったのです。また、学力が高くなけれ
ば合格できなかったので、本当に優秀な人材が全国から集まったものです。
東北からは、青森県人は私ただひとり。秋田から4名、山形から2名、岩手から1名でした。砲兵は、目標間との射距離の測定正確度が第一義であったので、数学の三角法対数表など旧制中学卒業生にとっては復習だったそうですが、私を含めた高等小学校卒業生にとっては新しい学習でした。
1時間の授業のうち、40分講義、10分試験、10分休憩と、毎日が精
根尽きる思いでした。実技である自走砲車体の習熟第一段としてトヨタ車の直立六気筒水冷ガソリンエンジンの分解結合が入校3か月で完結することなどの兵技演練項目が決められていたので、実技訓練時は作業衣を油まみれにしながら、スパナを回したものです。
次は故障の原因探求。自走砲は停止しては、ただの鉄の塊にすぎない。何が何でも動かすことが重要なので、夜間暗闇での故障修復演練も行いました。演練の賜物かネジの頭を手探りし、その適合スパナを嵌合(かんごう)(はめあわせる)できるようになりました。
そのほか、自走砲の操縦に進行方向を変える操行変速という装置があり、教官から「その装置を図面化し、説明せよ」との指示が出ました。この装置に惚れ込んでいた私は、すでに頭のなかでは装置概略が解けていたので、千載一遇とばかりに私なりの図面化をもって説明文を提出したら、お褒めをいただき、的中ピタリの満足を得ました。
また毎日「修養日誌」というものを書かされました。それは将来、部下を持ったときの人格形成のためのものでした。
私は、書道が得意だったので筆書きで通しました。そんな風に頑張り、卒業時の私の成績は、45名中5番目。戦地へ持参する「人事極秘」のなかの成績を密かに見ることができ、その成績を確認したときはとても誇らしく思ったものです。
皆には大騒ぎされましたが、努力の結果が実を結んだ当然の結果であっ
たと内心納得し、私の人生観に確信を得たものです。・・・つづく