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私とあなたとの対話実践①-違和感の中にあるあなたの生きづらさに気づく-

 
 普段、私は大学の中で、共創を生み出すファシリテーターの役割として、様々なプロジェクトに関わったり(生み出したり?)しています。色んな背景から今の部署にいますが、私が担うミッションも実は大きく、日々少しずつその大きなミッションに向かって業務を遂行しています。(もし聞きたい人がいたらお話します)

着任して3年目になるところで、大学という本当に多様性の塊の組織の中で、色んな考え方や価値観を大事にしながら、戦略的にプロジェクトがより良く前に進むのかを、日々もがきながら実践している中で、見えてきた学びや在り方がありました。普段はあまり自分のことを発信しないのですが、必要な人がいるかもしれないと思い、久しぶりにnoteに記してみます。

 様々な場所で「対話」という言葉を聞かれ、それが良いものであるという認識は広まりつつあります。この「対話」という言葉は、色んな考え方や実践があるので一概には言えませんが、自分の考えや感情に対してより深く向き合い、相手とより良く協働するために理解を深め合うコミュニケーションだと私は感じています。

大事にしていることは自分や他者を苦しめることもある:自分の心を観察してみる

私が学んできた中で、NVCやプロセスワーク、ワールドワークなど心理学をベースとしたファシリテーションはあります。自分と相手に共感していくNVC、相手のロールになってそれぞれの立場に立ちながら場の構造や自分を見つめるプロセスワーク。

これらの実践者や探究者と学びを深めていく中で、私が辿り着きにくかったのは、この今起こっている状態から私は何を「学ぶ」のか。

なかなか場の中にいると、自分ではなく、周りをホストする意識が強い私は、相手の気持ちを汲み取りすぎてしまい、相手の願いや気持ちの寄り添うことをしていました。相手の大事にしていることを肯定すればするほど、自分がモヤモヤするスパイラル。

頭ではそれぞれの経験から様々な意見がある状態であることを肯定し対話をしていくことが大事だと分かっていても、自分の枠の中でジャッジしてしまい、相手の声がなかなか丁寧に聞けないことはありました。

起こっている事象に対しては、自分や他者に共感もでき、相手の立場も頭では理解できる。でも、なぜかモヤモヤし、そして苦しく悲しいことも多くありました。

私がこれが大事だ!と思ったとしても、相手と大事なことが異なることがあります。その際に、それを押し付けることにより、相手を苦しることもあります。また、相手と自分を大事にする対話を進める際に、相手の話を聞きすぎるだけではなく、自分の中にある小さいけど大事な声に気づく必要があるのです。

ここで普通の対話の場だったら、「あなたの中に沸き起こったことを声にしてみてください」と言われるのですが、ここで少し自分の中で湧き上がっている感情や思いを深めていくことを私一人のみで行うことを始めていました。

また、これだけではなくて、それを思い始めたショッキングな出来事やその時の感情、考えなども深めていきました。もはや、自己カウンセリングに近い状態ではありましたが、何がこの事象から私は学べるのかと深く掘り下げていきました。

私とあなたの対話実践:場から湧き立つ自分への学び

あるとき、こんなことがありました。
「こんな話をするよりも、〇〇の話をした方がいい」という割と強めの言葉を、私が話をした後にミーティング中に発していた方もおられました。
「確かにそうなんだけど・・・」と思う反面、私が話した意見が否定された感覚がありました。
その人はそう思っていなくても、私は「この人の大事なポイントから外れたんだな」と少し虚しさを覚えました。

私はその場ではホストしていなかったので、自分のその虚しさや悲しさに向き合ってみました。
そうすると出てきたのは、「その人の価値や思考の枠にはまらなかっただけで、私は私という唯一無二の価値があるこそ声をあげてみた」という自分の中の声。

私の発した声は、私の感じた大事な声であり、それは誰かにジャッジされ、評価される訳ではない。
それと同時に、その人の「場のコントロール不能になる不安な気持ちがあるのかな」と私なりに受け取っていました。

もしかしたら、きっと、その方にも気づきや学びがあるのかもしれないと思うようになりました。

この時の私の学びは、「私は私で良いし、私と他の人との学びは異なること」「自分の学びに焦点を当てること」でした。

またある時は、こんなことがありました。
あるプロジェクトを進めていると、「あなたを信頼していたのに、私のアイデアを盗んだ!」と言われたことがありました。

私の認識としては、その方を含めた様々なステークホルダーと話し合いをし、合意をした上での対応したつもりではありました。

一旦その方の話を聞き、私の認識、私から見たその場で話されたことなどをお伝えすると、少しその方の怒りも少し収まって、一緒に話しをしてくださる状態にまで落ち着きました。

このとき、私は感じたのは、この方の「アイデアを盗まれた」と怒りが湧き上がる背景、その中にあるその方の学びはなんだろう?と思いを巡らせていました。

また、この事柄から私が学んだことは、「私は私で在ること、相手にも自分にも誠実に在ること」。自分と相手を思い、誠実に対応する。どうしたら人と気持ちよく関われるだろうか?と考えるようになった出来事でもありました。

どちらも対話の実践者から聞かれた言葉たちでした。

場に出す前に一旦自分の学びを深める:あなたの中にある生きづらさと向き合う

対話の中で、自分の心に正直に(もしかしたら、キツめの言葉かも)言葉使うと、本音が出て、場が動くと昔は私も思っていました。でも、実践を重ねる中で、それはお互いを心地よく深めていくためには違う方法だと思うようになりました。

対話は、人と人とが話を深め、お互いに気づきを得て、相手と協働することの可能性に満ち溢れた素敵なツール。ただ、「声を出すこと」を大事にするのみだけだと、自分の意見を主張・正当化し、相手をコントロールする可能性を孕んでいます。

個人的には「自覚的だ!無自覚だ!」というランクを意識することも、権威主義的なマウントに繋がる可能性があると最近では感じています。

人それぞれ経験や生きてきた背景、大事にしていることも多種多様。だからこそ、知識を知っているor知らないを振りかざすことは、相手への権威を表れに繋がることがあります。

相手に求める前に、場に求める前に、一度自分と向き合ってみる。

対話は自分と向き合う実践。相手がいるから深められることもありますが、自分との対話は、自分の生きづらさと向き合い、私が私として生きる実践だと感じています。

自分の声なき声に耳を傾け、自分をケアすることに心を砕くこと。

そして、場の中の言葉たちで、違和感やもどかしさがあると、それを相手に伝える前に自分に立ち返り、自分の学びを深めていく。

ここで出てくる学びは、自分の学びであり、誰かのせいにするものではなく、自分自身を肯定していくためのもの。

対話実践の中で、「誰かのせいだ!これはあなたが悪い!」と思うことは、あなたに向けられている心の叫びであること。

大勢の場をホストすると、つい見えにくくなる自分の本当の声。実は、場をホストし、対話を実践している人たちが一番、自分を見えにくくなる可能性があります。

だからこそ、今一度丁寧に自分と向き合い、そこにある学びに目をむけること。それこそが、対話の実践として必要なのではないかと最近は感じています。


次は、どのように自分の学びをキャッチアップできるのかを書けたら良いな。


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