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日記:「死生学」を学ぶ

どうも、お久しぶりです。湯埜です。

秋と言ってから色々と時間が経ちました。
おかげさまで結構楽しんで生活しております。近頃は目がしんどくて右目が瞼裂半になりました(笑)

さて、今放送大学で履修している「死生学」ですが結構読んでてしんどくなることが多かったですね。
実際、人の死を対面した人間は多くいると思います。自分も祖父母の死を対面し喪主であった母の手伝いをしてました。

死生学とは死者のまわりにいた残された人たちに対しての学問です。
残された人たちの心を学び、死とは何か再認識できる学問ともいえます。

教科書に「あいまいな喪失」という言葉は特にとても日本らしいものでありました。といってもこれは3.11以降から定着されている意味のひとつですかね。ご遺体のない死というのは「曖昧な喪失」となり、待ち人は永遠に待つことになりかねない状況を指します。

死生学の教科書を読破した上で考えるのは、残す者も残される者も「死は必然で、偶然である」ということです。まさか、というときに人はいとも簡単に消えてしまいます。私は祖父母をコロナ禍で両方亡くしました。しかも、ワクチン接種による副作用です。
さらに、弟もワクチン接種による副作用で体が自由にできなくなり社会的に復帰が難しい状況に陥りました。

社会が一丸となってワクチンを推奨し、特に、介護や看護などの医療従事者はワクチン接種を必ず受けないといけないと同調がありました。
結果として、「あなたはワクチン接種に同意したのだから責任は負えない」と返されました。
弟は「絶望することに疲れた」ともう生きることすらあきらめた風貌で、本当に弟が自分で自分を殺さないでいてくれと必死に止めたもんです。
だからこそ、学ぶべきだと思い死生学を取りました。

「49日」「命日」これらの時間を刻んで死んだ人間を弔う風習は日本の文化の一部であり、風習です。
また、これらは「グリーフサポート」のひとつでもあります。
肉体の死を認識しても、心などはまだ認めてない場合があります。喪失感というのはすぐにはおさまりませんので、時間をかける必要があります。

こういった「文化」はあるべくしてある風習なのが、また面白いんですよね。最近そういった風習すらなくなりつつあるので、「人の死」に対してもっと時間をかけてもいいような気がしました。
そして、自分が死んだときや大事な人が死んだとき自分がなにをするべきか行動指針もなんとなくですが、できました。

人間はコミュニティの中で生きていくもんなんで、抱え込まずにある程度はされけだしていきていきましょうってことですな。
ええ。
わたしは「大切な人の死」を寛容に受け取れるほど強くはないので、心を強くするのではなく知識を得て柔軟にしていこうと思いました。まる。

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