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ビルマ方面戦没者慰霊塔と未引揚海外死没者慰霊碑

久松山の北麓、円護寺(えんごうじ)集落に、2基の戦争関連の慰霊碑と慰霊塔があります。

未引揚海外死没者慰霊碑

天徳寺の坂を上がって円護寺隧道を抜けるとすぐ右手のちょっとした土の崖の上に、未引揚海外死没者慰霊碑が建っています。

未引揚海外死没者慰霊碑

太平洋戦争の最末期、1945年(承和20)8月8日。ソ連は日本に対して宣戦布告し、翌9日に南樺太、千島列島、満州国、朝鮮半島北部に一斉に侵攻しました。 ※太平洋戦争中、日本とソ連は日ソ不可侵条約を締結していたが、1945年4月5日にソ連によって破棄されていた。
これらの地域には、兵士として、あるいは開拓民として多くの日本人が在住していたのですが、非戦闘員を含む多くの人たちが犠牲になりました。
これらの犠牲者を慰霊するため、1957年(昭和32)12月に鳥取県海外引揚者協会が建立しました。

ビルマ方面戦没者慰霊塔

そこからほんの少しだけ下ると、右手にパゴダ様式の塔が建っています。これがビルマ方面戦没者慰霊塔です。

もともと鳥取には、砂丘で鍛えた「健脚部隊」として知られる鳥取四十連隊がありましたが、姫路に新設された百十師団に移された後に離脱し、新たに松江六十三連隊と百二十一連隊が鳥取県人が入る連隊になりました。
松江六十三連隊は「鉄部隊」として名をはせましたが、フィリピンへ出動し、ほとんど全滅しました。戦死者の大半は鳥取県人でした。
百二十一連隊は鳥取県人と兵庫県北部人で構成されました。ビルマ戦線で3分の2が戦死しています。鳥取県人1.278名・兵庫県人788名の計2,066名に加え、他の連隊でビルマ戦線で戦死した鳥取県人を加えて総計2.316名になります。

ビルマ方面戦没者慰霊塔

ビルマ方面戦没者慰霊塔は1956年(昭和31)に建立されました。私の周囲の人たちは「ビルマ塔」と呼んでいました。
小学校高学年の時、春の砂丘遠足には円護寺隧道を通っていきましたが、ビルマ塔で小休止の後、お参りをしたことを覚えています。私が小学校の時はコンクリート造りの白い塔でした。外観はいまの慰霊塔とほとんど変わらなかったと思います。
老朽化のため、1978年(昭和53)に黄金の仏塔(シュエダパゴダ)様式に改められました。
現在でも、毎夏に鳥取ビルマ遺児会の主催で慰霊式が挙行されています。

この他に、丸山の追分の近くに、鳥取県人で原子爆弾の犠牲になった人たちを慰霊する原爆慰霊碑が建立されています。
ここも訪れようと思ったのですが、喪服を着た方が大勢いて、立ち寄るのがためらわれました。ちょうど慰霊式か何かの最中だったのか・・・・?

このほかに今回は訪れませんでしたが、鳥取市郊外の国府町に鳥取陸軍墓地があり、戦没者慰霊碑が建立されています。

ビルマ方面戦没者慰霊塔と未引揚海外死没者慰霊碑の場所

<参考資料>
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行
・浜坂砂丘と歴史の広場 戦地からの手紙 戦地からの手紙 | 歴史研究 | 浜坂砂丘と歴史のひろば (sakyu-history.com)
・Wikipedia 日ソ中立条約 - Wikipedia
・Wikipedia ソ連対日宣戦布告 - Wikipedia
・Wikipedia ソ連対日参戦 - Wikipedia

次回予告 鳥取城の青木の局

以前、鳥取に伝わる人柱伝説として、米子城の人柱の話を紹介しましたが、鳥取城でもひっそりと語り継がれている人柱伝説があります。

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