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摩尼寺の道好上人-羽柴秀吉の鳥取城攻め-

1581年(天正9)、織田信長の名を受けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が鳥取城を攻撃しました。
これはその時に起きた出来事といわわる伝説です。

摩尼寺の道好上人と羽柴秀吉

戦国の頃、山中道好という医師がいた。のちに摩尼寺に入って修行し、大力の荒法師となった。
天正9年(1581年)、羽柴秀吉が織田信長の命を受け、鳥取城を攻略すべく因幡国に進出した。この時、秀吉率いる織田勢は多くの神社仏閣を焼き討ちしたが、摩尼寺には道好が立ちふさがって一人の兵も入れなかった。 
※若桜の不動院岩屋堂、智頭の豊乗寺、用瀬の大安興寺など、因幡の多くの名刹がこの時に焼き討ちされたという伝承がある。
秀吉は「仏事がある」と言って道好を本陣に招き、酒を出してもてなした。道好がふと摩尼寺の方を見ると、黒煙が上がり炎が燃えさかっている。
驚いた道好が摩尼寺に駆けると、7人の侍が愉快げに笑いながら通りかかった。道好は「さてはお前たちが寺に火を放ったのか」と吼え、傍らの松の木を引き抜いて7人を殴り殺した。この7人の墓は摩尼寺の下の茶屋の傍らを入った山の中にある五輪塔という。
ようやく摩尼寺に着いた道好だったが、時すでに遅く、諸堂は灰燼に帰したあとだった。
道好は「秀吉にまんまと謀られ、寺をこんなにしてしまった」と怒り、自ら石窟を築いてその中に入り、入定してしまった。
安永5年(1776年)にこの山が崩れた時、石窟が露出した。蓋石が割れていたので、隙間から中を覗いてみると、手を組み、膝を立てた白骨があった。頭蓋骨は大きく、脛も長く、「普通の人ではないだろう」と人々は話し合った。
その後、石窟はもとどおりに土中に埋め、「不動明王」と刻んだ石碑を建てて供養した。  <安陪恭庵:因幡民談記 寛政7年(1795年)成立?>

事件の概要は、鳥取藩の近習医である安陪恭庵が著した「因幡志」を現代語訳しました。
私はこの話を、小学校6年生の鳥取砂丘遠足の際に聞きました。砂丘遠足の帰りに摩尼寺に寄り、その時に学年主任の(かなりおっかない)先生からこの話を聞いたのです。
※その後2024年9月に帰省した際、鳥取県立図書館で調べ物をしていたら、この石碑は道好上人の墓ではないことが分かりました。現地訪問はまだ叶っていないため、この画像はそのまま掲載しています。

道好上人の墓と伝わる石碑

羽柴秀吉の鳥取城攻撃

羽柴秀吉の鳥取城攻撃は、実は1580年(天正8)と1581年(天正9)の2回行われています。
1回目の鳥取城攻撃は1580年の4~5月にかけて行われ、この時に城主の山名豊国はあっさりと秀吉に降伏。因幡国をほぼ平定した秀吉は6月に居城の姫路城に帰還しています。
ところが同年9月に、毛利軍の吉川元春が鳥取に進出して鳥取城を下し、新たな城番として毛利氏の勇将・吉川経家を鳥取城に入れます。この状況に、秀吉が因幡を完全に平定するために行ったのが、2回目の鳥取城攻撃です。1581年の7月から10月にかけて行われました。
「鳥取の渇殺」と呼ばれる凄惨な兵糧攻めが行われたのが、この時の戦いです。
羽柴秀吉による摩尼寺の焼き討ちが行われたのは、どちらの鳥取城攻撃の時だったのか。
あくまで推測ですが、

  1. 秀吉は、1回目の鳥取城攻撃に先立って、因幡国の諸城を陥落させていること

  2. 秀吉は1回目の鳥取城攻撃に伴って、因幡国の各郷に「禁制」(兵士の乱暴を禁ずるお触れ)を出していること

  3. この時、秀吉が撤兵した後、反織田軍の一揆が因幡国で多発していること

  4. 2回目の鳥取城攻撃の際は、籠城する因幡の国侍は、うち続く戦乱による疲弊、郷村の荒廃、病の流行などで、戦意が低いと、城番の吉川経家から鳥取城内の状況が毛利方に報告されていること

これらのことから、摩尼寺をはじめとする因幡の諸寺院が焼き討ちされたのは、1580年(天正8)春のことではないかと思います。

伝説に秘められた歴史の真実は・・・・

安陪恭庵の「因幡志」が完成したのは1795年。摩尼寺が羽柴秀吉に焼き討ちされたのが1581年。摩尼寺の焼き討ちは、「因幡志」が書かれるおよそ200年ほど前のことです。
ただ、道好上人が入定したと思われる石窟が山崩れで出土した1776年は、「因幡志」が完成する1795年のわずか19年前。それだけに石窟内の遺体の様子の記述など、リアリティがあります。
おそらく、山崩れで石窟が出土したのは事実であり、石窟の中に常人より大きな骨が眠っていたのも事実なのでしょう。
摩尼寺や不動院岩屋堂などの因幡国の名刹に羽柴秀吉の焼き討ちの伝承が残ること、合戦の際に抵抗勢力となり得る神社仏閣を焼き討ちすることは、よく行われていたこと等から考えて、秀吉率いる織田軍が摩尼寺をはじめ因幡の多くの寺を焼き討ちしたのも事実でしょう。
道好上人が実在した人物かどうかは分かりませんが、摩尼寺と運命を共にした人がいたことも事実でしょう。

摩尼寺への参道の途中にある道好上人の墓
摩尼寺本堂
「ニッポン旅マガジン」より不許転載
今秋も鳥取に帰省する予定なので、その時に撮影する写真と差し替えます

<参考文献>
・因幡志 著:安陪恭庵 世界聖典刊行協会 1978年(昭和53)9月14日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行

次回予告 天徳寺の山崩含霊塔

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