摩尼寺-羽柴秀吉の焼き討ち-
以前、羽柴秀吉の摩尼寺への焼き討ちに抗議して入定した道好上人の伝説を紹介しました。↓
・摩尼寺の道好上人-羽柴秀吉の鳥取城攻め-|Yuniko note
その記事で道好上人の入定崫も画像で紹介したのですが、あの場所は入定崫ではないことが、このたびの帰省で分かりました。
鳥取県立図書館で調べ物をしていて、道好上人の入定崫を紹介した記事を見つけ、このことが分かったのです。
入定崫の正しい場所を訪れなければと思い、再度摩尼寺を訪ねました。
摩尼寺
寺伝によると、摩尼寺は平安時代の初めに摩尼山の山頂の立岩で帝釈天に出会った産見長者が精舎を建て、慈覚大師円仁が承和年間(830年頃)に再興したと伝えられています。
後に記す羽柴秀吉の焼き討ちによって荒廃しましたが、初代鳥取藩主の池田光仲によって鳥取城の鬼門の抑えとして再興され、信仰を集めました。
因幡国では「人は亡くなればお山(摩尼山)に行く」と言い伝えられてきました。これが伯耆国では「人は亡くなれば大山に行く」になります。
摩尼寺は天台宗の寺院ですが、無檀家の寺院でもあり、老若男女の別なく、宗派の別なく、参詣することが許されています。
羽柴秀吉の摩尼寺焼き討ち
織田信長の命を受けて中国地方平定に邁進する羽柴秀吉は、1580年(天正8)と81年の2度にわたって鳥取城を攻撃しています。
摩尼寺が焼き討ちされたのは寺伝によると1581年のこととされています。
戦国の頃、山中道好という医師がいた。のちに摩尼寺に入って修行し、大力の荒法師となった。
天正9年(1581年)、羽柴秀吉が織田信長の命を受け、鳥取城を攻略すべく因幡国に進出した。この時、秀吉率いる織田勢は多くの神社仏閣を焼き討ちしたが、摩尼寺には道好が立ちふさがって一人の兵も入れなかった。 ※若桜の不動院岩屋堂、智頭の豊乗寺、用瀬の大安興寺など、因幡の多くの名刹がこの時に焼き討ちされたという伝承がある。
秀吉は「仏事がある」と言って道好を本陣に招き、酒を出してもてなした。道好がふと摩尼寺の方を見ると、黒煙が上がり炎が燃えさかっている。
驚いた道好が摩尼寺に駆けると、7人の侍が愉快げに笑いながら通りかかった。道好は「さてはお前たちが寺に火を放ったのか」と吼え、傍らの松の木を引き抜いて7人を殴り殺した。この7人の墓は摩尼寺の下の茶屋の傍らを入った山の中にある五輪塔という。
ようやく摩尼寺に着いた道好だったが、時すでに遅く、諸堂は灰燼に帰したあとだった。
道好は「秀吉にまんまと謀られ、寺をこんなにしてしまった」と怒り、自ら石窟を築いてその中に入り、入定してしまった。
安永5年(1776年)にこの山が崩れた時、石窟が露出した。蓋石が割れていたので、隙間から中を覗いてみると、手を組み、膝を立てた白骨があった。頭蓋骨は大きく、脛も長く、「普通の人ではないだろう」と人々は話し合った。
その後、石窟はもとどおりに土中に埋め、「不動明王」と刻んだ石碑を建てて供養した。 <安陪恭庵:因幡志 寛政7年(1795年)成立?>
羽柴秀吉による1回目の鳥取城攻撃は1580年の4~5月にかけて行われ、この時に城主の山名豊国はあっさりと秀吉に降伏。因幡国をほぼ平定した秀吉は6月に居城の姫路城に帰還しています。
ところが同年9月に、毛利軍の吉川元春が鳥取に進出して鳥取城を下し、新たな城番として毛利氏の勇将・吉川経家を鳥取城に入れます。この状況に、秀吉が因幡を完全に平定するために行ったのが、2回目の鳥取城攻撃です。1581年の7月から10月にかけて行われました。
「鳥取の渇殺」と呼ばれる凄惨な兵糧攻めが行われたのが、この時の戦いです。
羽柴秀吉による摩尼寺の焼き討ちが行われたのは、どちらの鳥取城攻撃の時だったのか。
あくまで推測ですが、
秀吉は、1回目の鳥取城攻撃に先立って、因幡国の諸城を陥落させていること
秀吉は1回目の鳥取城攻撃に伴って、因幡国の各郷に「禁制」(兵士の乱暴を禁ずるお触れ)を出していること
この時、秀吉が撤兵した後、反織田軍の一揆が因幡国で多発していること
2回目の鳥取城攻撃の際は、籠城する因幡の国侍は、うち続く戦乱による疲弊、郷村の荒廃、病の流行などで、戦意が低いと、城番の吉川経家から鳥取城内の状況が毛利方に報告されていること
これらのことから、摩尼寺をはじめとする因幡の諸寺院が焼き討ちされたのは、1580年(天正8)春のことではないかと思います。
安陪恭庵の「因幡志」が完成したのは1795年。摩尼寺が羽柴秀吉に焼き討ちされたのが1581年。摩尼寺の焼き討ちは、「因幡志」が書かれるおよそ200年ほど前のことです。
ただ、道好上人が入定したと思われる石窟が山崩れで出土した1776年は、「因幡志」が完成する1795年のわずか19年前。それだけに石窟内の遺体の様子の記述など、リアリティがあります。
おそらく、山崩れで石窟が出土したのは事実であり、石窟の中に常人より大きな骨が眠っていたのも事実なのでしょう。
摩尼寺や不動院岩屋堂などの因幡国の名刹に羽柴秀吉の焼き討ちの伝承が残ること、合戦の際に抵抗勢力となり得る神社仏閣を焼き討ちすることは、よく行われていたこと等から考えて、秀吉率いる織田軍が摩尼寺をはじめ因幡の多くの寺を焼き討ちしたのも事実でしょう。
道好上人が実在した人物かどうかは分かりませんが、摩尼寺と運命を共にした人がいたことも事実でしょう。
道好上人の入定崫はいずこに?
肝心の道好上人の入定崫ですが・・・・鳥取県立図書館で調べた地元紙のスクラップ記事に写真は載っていたのですが、そこへの行き方は記事によっていろいろでした。山門の脇にあると書かれた記事があったり、山門の脇から山に入っていく道の途中にあるという記事があったり・・・・
結局、道好上人の入定崫を見つけることは出来ず、これも次回訪問の課題となりました。
記事によると、以前は道好上人の入定崫を訪れる人が多く、供花が絶えることはなかったが、最近は訪れる人はほとんどなく、入定崫への道も荒れているということでした。
摩尼寺の門前には、江戸時代から営業されていたと伝わる、参拝客のための茶屋が2軒あったのですが、いずれもコロナ禍のあおりを受けて閉業してしまったようです。
摩尼寺の記事は、以前に掲載した「摩尼寺の道好上人」に大幅な加筆を加えたものです。道好上人の元記事についてはこちらを。ただし、記事に掲載している道好上人の墓の画像は、実際の墓(入定崫)ではありません。
・摩尼寺の道好上人-羽柴秀吉の鳥取城攻め-|Yuniko note
道好上人の入定崫をすぐに見たいという方はこちらを。画像が掲載されています。
・浜坂砂丘と歴史のひろば 近世期(円護寺・覚寺編) | 円護寺・覚寺の歴史研究 | 浜坂砂丘と歴史のひろば (sakyu-history.com)
摩尼寺近くには、継子いじめの伝説も伝わっています。その記事についてはこちらを。
摩尼川の継子落としの滝|Yuniko note
摩尼寺の場所
<参考資料>
・因幡志 著:安陪恭庵 世界聖典刊行協会 1978年(昭和53)9月14日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行
・浜坂砂丘と歴史の広場 浜坂・江津の石碑・歌碑・自然景観など 浜坂・江津の石碑・歌碑・自然景観など | 史跡を歩く | 浜坂砂丘と歴史のひろば (sakyu-history.com)
・摩尼寺の現地解説板各種
次回予告 ビルマ方面戦没者慰霊塔と未引揚海外死没者慰霊碑-久松山の戦争関連慰霊塔-
久松山の北の山腹に戦争関連の2基の慰霊塔があります。