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浜坂の千匹狼

鳥取砂丘の西の端。浜坂に千匹狼がいたという言い伝えがあります。
私が子どもの頃に祖母から聞いた話ですが、地元でもほとんど知られていない話と思います。

浜坂の千匹狼

”むかし、浜坂には狼がたくさんいて、いま「こどもの国」のあるあたりから浜坂の集落の上の鳥取砂丘を越えていき、『千匹狼』と言われていた。人が襲われたということはなかったが、夜に砂丘を越す人がいると、縄張りから人が出て行くまで後を付いてきていた。”

祖母自身は千匹狼を見たことはなく、話で聞いただけだったようです。
ただ、自動車で浜坂から鳥取砂丘に向かうとき、「千匹狼が出たのはこのあたりだったらしい。千匹狼が歩いて行ったのはこのあたりだったらしい」と聞いていたので、場所は覚えています。

千匹狼が越えていったという砂丘

この場所には、子どもの時以来、本当に久しぶりに訪れました。私が子どもの頃は一面の砂の丘でしたが、なんとまあ・・・・草原化、藪化が相当進んでいるようです。
鳥取砂丘の一部は国立公園、天然記念物に指定され、行政も鳥取砂丘の草原化、藪化を危惧してボランティアを募ったりして除草、伐採に努めているのですが、そうでないところはこの有様です。
千匹狼が越えていったという夜の砂丘を想像するのは難しかったです。

祖母の話に出てきた狼はニホンオオカミのことと思われますが、ニホンオオカミは祖母が生まれる前に絶滅しています。
千匹というのはおおげさですが、むかし砂丘の近くに住んでいたニホンオオカミの群れか、あるいは野犬の群れのことを「千匹狼」と呼んでいたのかもしれません。

「人を襲うことはない」「縄張りに人が入ると、出て行くまで後をつけてくる」というのは、伝説に残るニホンオオカミの特徴と一致します。

有島武郎と与謝野晶子の歌碑

ここには、有島武郎と与謝野晶子が鳥取砂丘を詠んだ歌碑が建っています。

有島武郎 浜坂の 遠き砂丘の中にして さびしきわれを 見いでつるかも
与謝野晶子 砂丘踏み さびしき夢に与かれる われと覚えて 涙ながるる

有島武郎と与謝野晶子の歌碑

有島武郎は1923年(大正12)4月に来鳥し、5月に鳥取砂丘を来遊しています。その時詠んだのがこの歌です。
ところが、有島は約1か月後の6月9日に軽井沢の浄月庵で波田野秋子と情死してしまいます。
その7年後の1930年(昭和5)、夫の与謝野鉄幹とともに鳥取砂丘を訪れた与謝野晶子が、有島武郎を偲んで詠んだのがこの歌です。
この歌碑は1991年(平成3)に建立されました。道理で見たことがなかったはずだ・・・・

千匹狼が出たというあたりの砂丘から西の方を眺めると、さえぎるものがないため、遠くの山々までよく見えました。

砂丘から見た因伯国境の山々
やや右寄りに見える山は鷲峰山(じゅうぼうさん)
鷲峰山

この日は気象条件がよかったようで、大山もよく見えました。

山並みの向こうにうっすらと見える大山
大山山塊
左:烏ヶ山  中央:大山  右:甲ヶ山

細い道を500mほど行くと、「鳥取砂丘こどもの国」があり、その入り口向かいに、かつての一里松が残っています。浜坂集落から砂丘を通る道は、但馬国(たじまのくに 兵庫県北部)に向かう但馬街道でした。

鳥取砂丘に残る一里松
このあたりにも千匹狼が出たということです

一里松の近くにも、有島武郎の歌碑が建っています。

有島武郎 浜坂の 遠き砂丘の中にして さびしきわれを 見いでつるかも

有島武郎の歌碑

この歌碑は1959年(昭和34)に建立されました。歌碑を揮毫したのは、当時鎌倉に住んでいた有島武郎の実妹・山本愛子です。

千匹狼が出たという場所

<参考資料>
・浜坂砂丘と歴史の広場 浜坂・江津の石碑・歌碑・自然景観など 浜坂・江津の石碑・歌碑・自然景観など | 史跡を歩く | 浜坂砂丘と歴史のひろば (sakyu-history.com)

次回予告 摩尼寺-羽柴秀吉の焼き討ち-

羽柴秀吉は2度にわたって鳥取城を攻撃していますが、その時に因幡第一の霊場とされる摩尼寺も焼き討ちされました。

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