【改訂版 越後平野の(四本柱ではない)火葬場】三条市(旧栄村)新堀の火葬場跡
<改訂版について>
2月16日に公開した三条市(旧栄村)新堀の火葬場跡についても、その成り立ちについて、重要なご教示をいただきました。この場所は、死牛馬の捨て場(埋葬地?)だったということです。
それに伴い、かなりの箇所が訂正になるので、内容を書き改めた上、改訂版として公開いたします。
新潟県中越地区の古い葬送儀礼を調べています
新潟県の古い火葬場跡探しと並行して、新潟県の葬送儀礼を調べています。ちょっと誤解を招きかねない表現ですが、これがとても興味深いです!昔の人たちの故人に寄せる思いや死生観が、葬送儀礼から偲ばれるのです。
また、葬送儀礼には一定の型(葬祭の進め方)があるようなのですが、地域が違うと微妙に違っていたりします。
調べる資料は、地域の図書館にある「〇〇市(町・村)史」の「民俗編、資料編」です。
三条市(旧栄村)新堀の火葬場跡
そんなわけで、「栄村誌」という史料の「民俗文化資料篇」を読んでいると、旧栄村にあった火葬場の写真が載っていました。
「昭和40年(1965年)の撮影」と記されていました。田んぼの中の少し高くなった場所、木立の蔭に小屋が見えます。煙突は確認できませんが、火葬場の雰囲気が強く感じられます。
写真の右手には、集落の建物と思われるものが小さく写っています。
三条市(旧栄村)新堀(にいぼり)は仕事でよく通る集落で、田んぼの真ん中に気になる空き地がいくつかあります。
国土地理院の空中写真を使って、場所の特定を試みました。
国土地理院の空中写真-場所の特定作業
1962年(昭和37)5月7日撮影の空中写真で、火葬場らしい建物を探しました。前に紹介した写真が撮影される3年前の空中写真です。新堀集落のどこかに火葬場が写っているはずです。
木立と建物らしきものが写っている場所が確認できました。
幸いなことにこの地域は、現在と道路の走りなどがそれほど変わっていません。新堀集落から南側に少し外れた田んぼの中、今の三条市役所栄庁舎の少し東側の田んぼの中です。
1975年(昭和50)撮影の空中写真です。火葬場を撮影した昭和40年の写真から、ちょうど10年後です。やはり、木立と建物らしきものが写っています。
前の空中写真から11年後、1986年(昭和61)撮影の空中写真です。最初に紹介した火葬場の写真が撮影されてからは、21年が経過しています。
木立は残っているようですが、建物はよく見えません。
なお、栄村は1981年(昭和56)に町制移行し、「栄町」になりました。
時代が一気に下って21年後。2007年(平成19)5月14日撮影の空中写真です。
21年の間に道路が拡張され、田んぼも圃場整備がなされたようで、火葬場と思われる場所周辺の道路や田んぼ、あぜ道も少し走り方が変わっています。でも基本的には、最初の空中写真が撮影された1962年(昭和37)とはそんなに変わってはいません。
火葬場があったと思われる場所は、建物はもちろん、木立もなくなって空き地となっています。
この2年前、2005年(平成17)5月1日に、栄村→栄町は三条市に編入されました。
火葬場跡と思われる空き地の近くに栄町役場がありましたが、町役場は三条市役所栄庁舎に替わっています。三条市教育委員会が、この建物に入っています。
火葬場があったと思われる場所は、ほぼ特定できました。三条市役所栄庁舎のほぼ東側に草の生い茂る空き地がありますが、そこが昔の火葬場跡と思われます。
旧栄村→旧栄町概要
旧栄村のあたりは、いくつかの村がありました。
戦争前には東方にある山から油田が採掘され、「大面(おおも)油田」と呼ばれました。そこから噴出する石油は、軍需産業に用いられたということです。
戦前から村の合併が進み、1956年(昭和31)9月30日に栄村が成立しました。
その後、1981年(昭和56)に町制施行し、2005年(平成17)5月1日に三条市に編入されて、その歴史を閉じました。
旧栄村 新堀火葬場跡
火葬場の正面と思われるあたりの画像です。正確に北方向を向いており、3段ほどの石段が設けられています。
入り口と思われるあたりには崩れかけたブロックの小屋の中に、石仏が祀られています。進入をさえぎるような配置ですが・・・・ここに入る人は、まずこの中の石仏に祈りを捧げてから入るのでしょう。
写真の右奥にも、小さなブロック小屋が見えます。
ブロック小屋の中の石仏は、三面六臂(さんめん・ろっぴ)です。三面六臂といえば「阿修羅」を思い出しますが、三面観音も三面六臂とされています。三面観音は馬頭観音と呼ばれることもあるようです。
「四本柱」さんからのご教示によると、この場所は以前は死牛馬の捨て場だったということです。とすると、この空き地の入り口に設置されている石仏は馬頭観音です。馬頭観音は畜生類を救う仏とされ、この地で眠る牛馬たちを供養しているのでしょう。
ブロック小屋の脇には屋根が置かれていました。このブロック小屋の上を覆っていた屋根でしょうか。
敷地の最奥部には、ブロック小屋の中に石地蔵があり、静かに祈りを捧げています。
石地蔵を祀ったブロック小屋の近くには、草に埋もれた多くの石地蔵がありました。
石地蔵を祀ったブロック小屋の近くには、これも草に埋もれて鉄扉のようなものがありました。
画像では草に埋もれてよく確認できませんが、長さ2mくらい・幅50㎝くらいの細長いものです。火葬炉の扉の一部のようにも思えます。
火葬場跡の敷地の周囲を回ってみます。
文献等で確認したのではありませんが、北入りの入り口、三面観音(馬頭観音)像、敷地奥の石地蔵とその周囲の石地蔵群、謎の鉄扉など、ここが昔の火葬場跡と考えて間違いなさそうです。
<2024年(令和6)2月11日 訪問>
周辺の火葬場の位置関係
周辺の火葬場の位置関係です。
新堀の火葬場跡は、写真資料で明らかなように、四本柱火葬場ではありません。時代的にいうと、四本柱火葬場の次の世代にあたる火葬場でしょう。いつ頃に造られ、いつ頃から使われ始め、いつ頃に役割を終えたのかは分かりませんが、最初に紹介した写真が撮影された昭和40年(1965年)には、まだ現役だったことと思われます。
見附市芝野町の火葬場跡と三条市(旧栄村)新堀の火葬場跡の改訂版を公開しました。
2つの火葬場跡について詳細なご教示をいただいた四本柱さんに、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。