倉吉市・勝宿彌神社【里見八犬伝終焉の地・2】
3回シリーズで房総の戦国大名・里見氏終焉の地を巡る2回目。
江戸幕府の政争に巻き込まれて領地を没収され、倉吉での最初の住居も追われた里見忠義が、次に住んでいたとされる地を訪ねました。
里見家最後の当主・里見忠義
里見氏および里見忠義についてのくわしくはこちらを。↓
倉吉市・大岳院【里見八犬伝終焉の地・1】|Yuniko note
1614年(慶長19)9月。里見家最後の当主・里見忠義は江戸幕府内の政争のとばっちりを受け、先祖伝来の根拠地である安房国を没収され、伯耆国倉吉3万石を与えられました。
同年12月頃に倉吉に着いた忠義主従は、大岳院の近くに居を定めました。しかし、実際に幕府の代官から告げられた領地は3万石という約束とは違い、3千石ほどでした。
豊臣家滅亡後、2代将軍・徳川秀忠は全国の大名の大規模な国替えを断行しました。それまでは、因伯(いまの鳥取県)は鳥取城の池田長幸、若桜鬼ヶ城の山崎家治、鹿野城の亀井政矩、八橋城の市橋長勝、米子城の加藤貞泰、黒坂鏡山城の関一政の計6人の大名が統治していたのですが、彼らは一気に転封され(関一政は取り潰し)、1617年(元和3)6月に岡山城主の池田光政が因幡伯耆32万5千石の領主となりました。池田光政は倉吉に陣屋を築き、重臣・伊木長門守を置きました。
結果、里見忠義は神坂村の屋敷を追われ、領地も百人扶持に減らされました。
神坂村の屋敷を追われた忠義が新たに居を定めたのが、倉吉市郊外の下田中にある勝宿彌(かちすくね)神社の近くだったとされています。
勝宿彌神社
忠義が最初に居を構えた神坂村は、戦国時代から安土桃山時代にかけて築かれた打吹城の近くだったのですが、下田中は倉吉の郊外で天神川のほとりです。
里見忠義の屋敷は勝宿彌神社のすぐ近くにあったと伝えられており、近くの民家には「里見井戸」と称する井戸が残っているといいます。
画像を見てお分かりのとおり、屋敷のすぐ近くは天神川が流れています。大雨の時などは洪水の心配もあったのでは、と思います。
しかし忠義は、1619年(元和5)に下田中の屋敷も追われ、倉吉から15㎞ほど上流の堀(倉吉市関金町堀)という村に追われてしまうのです。
勝宿彌神社の場所
<参考資料>
・房総 里見一族 川名登 新人物往来社 2008年3月15日発行
・Wikipedia 里見忠義 - Wikipedia
・今日もおでかけ 勝宿彌神社(前編) 今日もおでかけ 倉吉市下田中町 「勝宿禰神社」(前半) 彫刻 (fc2.com)
・今日もおでかけ 勝宿彌神社(後編) 今日もおでかけ 倉吉市下田中町 「勝宿禰神社」(後半) タブノキ、亀趺灯籠 (fc2.com)
次回予告 関金町堀の里見屋敷跡【里見八犬伝終焉の地・3】
先祖伝来の領国・安房国を追われ、倉吉での神坂村の屋敷、ついで下田中の屋敷も追われた里見忠義が、最後に住んだ屋敷跡を訪ねました。