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関金町堀の里見屋敷跡【里見八犬伝終焉の地・3】

3回シリーズで房総の戦国大名・里見氏終焉の地を巡る3回目。
先祖伝来の領国・安房国を追われ、倉吉での神坂村の屋敷、ついで下田中の屋敷も追われた里見忠義が、最後に住んだ屋敷跡を訪ねました。
そして、ここが里見氏終焉の地となりました。

里見家最後の当主・里見忠義

里見氏および里見忠義、倉吉の最初の住居と墓についてのくわしくはこちらを。↓
倉吉市・大岳院【里見八犬伝終焉の地・1】|Yuniko note
忠義の次の屋敷跡についてはこちらを。↓
倉吉市・勝宿彌神社【里見八犬伝終焉の地・2】|Yuniko note

1614年(慶長19)9月。里見家最後の当主・里見忠義は江戸幕府内の政争のとばっちりを受け、先祖伝来の根拠地である安房国を没収され、伯耆国倉吉移されました。
初めは打吹城近く神坂村に居を構えましたが、その後は郊外の下田中に移され、さらに20㎞近く上流の堀村(倉吉市関金町堀)に移されたのでした。

関金町堀の里見屋敷跡

関金町堀に「山郷神社(やまさとじんじゃ)」という神社があります。
その神社に続く田んぼが里見屋敷の跡と伝えられています。

山郷神社

山郷神社の左手へ少し歩くと2段になった田んぼが広がっています。
ここが里見忠義が最後に住んだ屋敷跡です。
1622年(元和8)6月19日。里見忠義はこの地で亡くなりました。29歳という若さでした。

里見屋敷跡

忠義の遺骸は、倉吉の町に近い定光寺河原で火葬にされましたが、忠義の身柄を預かる形になっていた池田氏からは「死骸がたしかに忠義かよく確認せよ。近隣の住民にも見せてよく確認せよ。火葬および葬儀の処置は手落ちがないように取りはからえ。手落ちがあれば幕府から責められるのはわれわれだ」と、なんとも冷たいお達しが出されたようです。

里見忠義主従の廟と椎の巨樹

里見屋敷跡の左手奥に祠があります。里見忠義主従を祀ったと伝えられている廟(びょう)です。「六人塚」と呼ばれているそうです。

里見忠義主従の廟

廟の後ろには椎の大木が2本立っています。樹高はそれぞれ15m、樹齢はともに400年と推定されているこの椎の巨樹は、倉吉市の保存樹に指定されています。
この椎の樹には、今なお里見忠義主従の霊がとどまっていると伝えられており、枝を伐っただけでも祟りがあると言われています。

里見屋敷跡の椎の樹
倉吉市保存樹

この椎は樹齢400年と推定されると記しましたが、400年前は里見氏が改易され、忠義が没した江戸時代初期。
参考資料に上げている「房総 里見一族」(新人物往来社)を著した川名登氏は、「(この椎は)忠義と殉死者の霊を弔って植えられたのではないか」と推測されています。

関金町堀に残る「あわのかみ様」の塚

里見屋敷跡の裏手からふもとに降りていく道があり、その途中に小さな祠がありました。

里見屋敷跡から少し下ったところにある古い祠

祠ではありませんが、山郷神社への登り口には小さな石塔が2基立っていました。

山郷神社登り口の石塔

里見忠義の最後の地となった関金町堀には「あわのかみ様」という塚が残っているそうです。
里見忠義の官職は「安房守(あわのかみ)」。川名登氏は「房総 里見一族」の中で、「忠義の死後、この地に残った家臣の墓が”あわのかみ様”として伝えられたのではないか」と記しています。
ただ、ここで紹介した古い祠や石塔が"あわのかみ様"かどうかは分かりません。

また、川名氏は山郷神社の祭礼が9月19日、つまり忠義の後を追って殉死した8人の命日に行われていたことに着目し、山郷神社は忠義が屋敷の中に建てた氏神が発展したのではないかと推測されています。

関金町堀

山郷神社から見た堀の集落
向こうに見える山は下蒜山と中蒜山

山郷神社から見た堀の集落。
安房国一国と常陸国鹿島郡12万石を領した里見忠義が、領地を没収された後、終の住処となった堀。忠義も見たに違いない景色。
温暖な安房国とはあまりに違う雪深い山村で暮らしながら、忠義は何を思ったのでしょうか。

里見忠義は暗君だったのか

作家の南條範夫氏の「大名廃絶録」という本に、一番最初に里見忠義が紹介されています。そこでは忠義は暗君扱いで、呆れるような愚行ばかりが紹介されています。ただ、典拠とされているのは、江戸中期に書かれたあまり信用のおけない史料です。
確実な記録によると、忠義は安房国の検地を行って収穫高を確定させたり、商業を振興させる施策を講じたり、暗君とは思えないほど熱心に領国統治に取り組んでいます。
ただ、こうした近世への政治的変革が戦を生業とした旧タイプの武士たちの反感を買ったことや、源氏の名族・里見氏が忠義の代で滅亡したことなどから、後世に忠義が実像以上に悪く書かれてしまったのではないでしょうか。

里見氏のその後

里見忠義は正室との間に2人の女子がありました。この2人はそれぞれ江戸幕府旗本に嫁いでいるようです。
忠義は側室との間に少なくとも3人の男子をもうけているようですが、江戸幕府は「忠義に男子なし」として、彼らの存在を認めませんでした。
そのうちの一人は忠義改易の年に安房国で生まれ、その子孫は越前国鯖江藩の家老を務めています。忠義の曾孫に当たる里見義孝は、里見氏の来歴に興味をもち、忠義の墓のある大岳院にも訪れ、墓も大岳院にあります。↓
倉吉市・大岳院【里見八犬伝終焉の地・1】|Yuniko note

別の一人ははじめ山下姓を名乗りましたが、やがて里見姓に復し、江戸幕府に仕えました。子孫は幕末には御家人となっています。
さらに別の一人ははじめ母方の広部姓を名乗りましたが、江戸中期に里見姓に復し、若狭国小浜、つづいて京都で暮らしたそうです。

倉吉せきがね里見まつり

里見氏終焉の地となった関金町では、里見一族を偲んで「倉吉せきがね里見まつり」が行われています。
倉吉せきがね里見まつり公式サイト (sekigane.com)
時代行列や奉納演奏、さらに八賢士の名を冠した剣道大会や子ども歌舞伎の上演など、倉吉市民と関金町民が里見氏に寄せる思いにあふれています。

2024年の「倉吉せきがね里見まつり」のパンフレット

関金町堀 里見屋敷跡の場所

<参考資料>
・房総 里見一族 川名登 新人物往来社 2008年3月15日発行
・Wikipedia 里見忠義 - Wikipedia
倉吉せきがね里見まつり公式サイト (sekigane.com)

次回予告 豊乗寺の蛇の池-清美の悲恋-

鳥取県の伝説の地、悲しい歴史の地巡りは因幡国(鳥取県東部)に移ります。
智頭町の名刹・豊乗寺に恋人に裏切られて蛇に変わってしまった悲しい女性の伝説が伝わっています。

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