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義民 東村勘右衛門・2-勘右衛門土手と東村勘右衛門之碑-

鳥取県東部で令和の今も語り継がれている義民・東村勘右衛門(松田勘右衛門)について紹介する2回目です。
東村勘右衛門について、くわしくは前項をご覧ください。江戸時代中期に鳥取藩で起きた元文一揆の指導者として処刑された人物です。
義民 東村勘右衛門・1-元文一揆と斬刑地蔵-|Yuniko note

勘右衛門土手

東村勘右衛門は旧八東町東(当時の東村)の庄屋を務めた人です。
子どもの頃の逸話として、次のような話が伝わっています。

勘右衛門が8歳の頃、寺子屋で学んでいた友だちや先生たちと八東川に遊びに来ました。その時、どこからかやってきた犬を川の向こうに渡らせられるか競争になりました。でも、誰も犬を川の向こうに渡らせられる人はいません。
勘右衛門は家に帰ると、おむすびを2つ持ってきました。勘右衛門は1つを犬に食べさせると、もう1つを向こう岸に放り投げました。犬はもう一つのおむすびも食べたくて、八東川を泳いで向こう岸に渡りました。
人々は勘右衛門の知恵に感心したということです。

地域を流れる八東川は、元禄から享保の40年間に十数回も洪水を起こし、田畑を荒らしました。
農民の苦しみを見かねた勘右衛門は、藩に願い出て、私財を投じて堤防工事を行いました。土手の土台に藤葛を用いて地盤を強化し、巨石を積み上げて堤防そのものの強化も行うなど、優秀な技術者だったこともうかがえます。
さらに、飢饉に備えて堤防にニラを植えることを奨励するなど、農業振興にも工夫しています。

八東川の対岸から見る勘右衛門土手
勘右衛門土手
勘右衛門土手
こちらは石積がきれいだけど、後代に積み直しがなされてるかも?
土手上、現地の解説板のそばにある何かの遺構

東村勘右衛門之碑

勘右衛門土手のすぐ近くに、勘右衛門の顕彰碑が建てられています。これは1965年(昭和40)に地元の有志が中心となって建立したもので、令和の現在でも勘右衛門は義民として顕彰されています。

東村勘右衛門之碑

碑の側面には「昭和四十年十一月二十五日建立」と刻まれています。
この日は、勘右衛門が処刑されてから225年と4日目でした。

勘右衛門地蔵

旧・八東町から遠く離れた鳥取市にも、勘右衛門を供養する遺跡があります。
千代川の西岸に「安長土手(嵐ヶ鼻土手)」という鎌倉時代から室町時代にかけて築かれた土手が残っていますが、そのたもとに「勘右衛門地蔵」というお地蔵さまがあります。
安長土手は、勘右衛門たち元文一揆の指導者が処刑された鳥取藩斬刑場の対岸にあたり、勘右衛門をはじめとする元文一揆で処刑された人たちを供養するためのものとされています。
なお、この安長土手には鳥取県の戦国時代にまつわる悲史があるのですが、そちらは近日公開予定の「幽霊薬」にて、くわしく紹介いたします。

安長土手
勘右衛門地蔵

現在、勘右衛門土手はその歴史的意義が評価され、八頭町指定の文化財になっています。
また、勘右衛門が凶作に備えてニラの栽培を奨励したことに因んで、「道の駅 はっとう」では「世直しニラ餃子」が販売されていました。現在は残念ながら作られていないようです。

東村勘右衛門の碑と勘右衛門土手の位置

<参考文献>
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県歴史散歩研究会 山川出版社 1994年3月25日発行
・鳥取県の歴史散歩 編:鳥取県の歴史散歩編集委員会 山川出版社 2012年12月5日発行
・はっとうちょうのむかしがたり⑧(勘右衛門顕彰碑の現地解説板) 平成8年(1996年)3月
・勘右衛門土手(現地解説板) 八頭町教育委員会 令和2年(2020年)4月27日
・東村勘右衛門之碑(現地解説板) 八頭町教育委員会
・ふるさと文化探訪 勘右衛門地蔵(現地解説板) 平成4年(1992年)3月 鳥取市教育委員会

次回予告 申年がしん-鳥取市郊外に残る天保の大飢饉の供養塔-

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