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地域の悲史 鳥取県

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鳥取県内の地域の悲しい歴史を物語る遺跡を紹介しています。
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#供養塔

岩常の耳塚

岩美郡岩美町の岩常(いわつね)にある「耳塚」を紹介します。 これは南北朝時代の戦死塚です。 はじめに、少し長くなりますが、耳塚の由来を知っていただくために必要な「観応の擾乱」と「山名時氏」について説明いたします。 観応の擾乱 観応元年(1350年)室町幕府初代将軍の足利尊氏と弟の足利直義の争いが起こった(観応の擾乱)。尊氏と直義の対立は、朝廷内の対立(京都の北朝と吉野の南朝)、公家と武士の対立も巻き込んで全国に波及した。 観応の擾乱は、正平7年(1352年)の足利直義の

浜坂の犬塚と犬橋

鳥取市浜坂にある「犬塚」と「犬橋」を紹介します。 犬塚と犬橋 前に紹介した「丸山の追分」を砂丘方向に曲がらないで直進した道は、鳥取砂丘を通って但馬国(兵庫県北部)へと向かう但馬街道で、多くの人でにぎわった道でした。 ※「丸山の追分」については、こちらをご覧ください→申年がしん-鳥取市郊外に残る天保の大飢饉犠牲者の供養塔-|Yuniko note ところが、この道の途中に千代川と摩尼川(摩尼寺のある摩尼山から流れる川)の合流点があり、そこは小川のわりに川底が深くて川崖も高く

天徳寺の山崩含霊塔

鳥取市の天徳寺にある「山崩含霊塔(やまくずれごんりょうとう)」を紹介します。 ある種の、お墓と言ってもよいかもしれません。 天徳寺について・1 天徳寺は、正式には「萬年山天徳寺」といいます。1538年(天文8)に創建されたと伝えられています。もとは、今の鳥取市湯山(鳥取砂丘の背後にある丘陵地の山裾)にあり、多年山城福寺という名で摩尼寺の塔頭の一つだったといいます。 その後、天台宗から曹洞宗に改宗し、1550年頃に現在の地に移転し、天徳寺の改称したそうです。 山崩含霊塔

立見峠の怨霊-伝説が秘める因幡の戦国時代・2-

今回も、お盆にちなんで幽霊の出てくる伝説です。 鳥取市郊外の本高から宮谷に抜ける「立見峠」という峠があります。令和になった現在もなお、昔の峠の面影を残している峠です。 この峠には、戦国時代に無念の死を遂げた若き武将の怨霊が出没し、村人を脅かしたと伝えられています。 立見峠の怨霊伝説 1560年代中頃、因幡守護・山名氏から鳥取城番を命じられた武田高信は、因幡制覇の野望を秘めていた。 おりしも、守護・山名誠通(久通)は但馬山名氏との戦いに敗れて戦死してしまう。誠通には源七郎と

申年がしん-鳥取市郊外に残る天保の大飢饉犠牲者の供養塔-

近世以前の日本では、災害や封建諸侯による収奪などが原因で多くの飢饉が起こりました。特に江戸時代に起きた次の四つの大飢饉を「江戸四大飢饉」と呼んでいます。 ・寛永の大飢饉 1642~43年 ・享保の大飢饉 1732年 ・天明の大飢饉 1782~1787年 ・天保の大飢饉 1833~1839年 この中で最も規模と被害が大きかったとされるのが「天明の大飢饉」ですが、鳥取県東部では「天保の大飢饉」を「申年(さるどし)がしん」と呼んで、その悲惨さが語り継がれていました。 鳥取県内にも「