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斎場&火葬場跡 訪問記

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現在住んでいる新潟県中越地方と生まれ育った鳥取県を中心に、斎場や火葬場跡を訪問し、その様子を紹介いたします。
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記事一覧

三条市(旧栄町)東光寺の5集落共同火葬場跡

11月7日。冷たい雨の降る日でしたが、「四本柱」さんから教えていただいた三条市東光寺の集落合同火葬場跡を訪ねました。周辺にある東光寺、福島新田、一ツ屋敷、若宮新田、呉江の5つの集落の合同火葬場跡だそうです。 旧栄町東光寺の5集落共同火葬場跡 火葬場の跡地は現在、農業廃水処理施設になっています。 樹木のそばに白御影の石材が三つ 樹木のそばに白御影の石材が三つ置かれていました。この石材は? これも、火葬場があった頃の名残かも知れません。 施設の正門の隙間から望遠機能で撮

【陶器片】 見附市新潟町戸代の火葬場跡 【入り口の木の柱】

斎場&火葬場訪問の記事によくコメントをいただく「四本柱」さんから見附市、三条市の火葬場跡をいくつか教えていただきました。そのうち、見附市新潟町戸代にある火葬場跡を、3連休最後の日の昼下がりに訪問してみました。 見附市について 見附市は新潟県のほぼ中央に位置する市で、2024年(令和6)10月1日現在の人口は37.445人。1954年(昭和29)3月31日に見附町・新潟村・葛巻村・上北谷村の4つの町村が合併して市制施行し、見附市になりました。1956年(昭和31)9月30日

鳥取市の旧丸山火葬場の新たに分かった事実

次回の鳥取訪問では鳥取に残る隠れキリシタン関係の遺跡を巡ってこようと思っていますが、それに関する資料を読んでいて、旧丸山火葬場に関する私の知らなかった事実を見つけました。 丸山の旧火葬場について 現在、鳥取県東部の火葬は因幡霊場で行っていますが、1970年代の中頃までは丸山の旧火葬場で行っていました。鳥取市報等の資料を読むと、少なくとも大正10年頃から火葬場として使われていたようで、50年以上の歴史があったようです。 また、地元で細々と語り伝えられている伝承に、江戸時代か

伯耆町・福岡の埋め墓 【霊峰大山のふもとの両墓制・3】

大山のふもとの埋め墓の紹介は、今回が最後になります。 そして、このたびの斎場&火葬場跡&葬祭施設の紹介も、これで取りあえず最終回になります。 実は・・・・初めて見つけた埋め墓 掲載順では埋め墓シリーズの最後になっていますが、実は福岡の埋め墓が最初に訪れた埋め墓です。 ここに記すのが、今回の訪問地と訪問日&訪問順です。 <9月13日(金)> 米子駅→①半の上の狂狼順礼殉難の地→②幽霊滝→③福岡の埋め墓→④八百比丘尼の入定崫 <9月14日(土)> ①米子城→②柳生宗章の供養塔

中山の埋め墓 【霊峰大山のふもとの両墓制・2】

かつて土葬が主流だった頃、遺体(遺骨)と遺髪等を別々の場所に納める「両墓制」という墓制が行われていました。鳥取県西伯郡の大山町や琴浦町では両墓制の埋め墓が広く分布し、近年まで細々と両墓制が行われていたようです。 両墓制について・1 両墓制については前回説明しましたので、ここでは簡単に。 「両墓制」とは簡単に言えば、一人の死者に対して二つの墓を設ける習俗です。 遺体(遺骨)を埋めた墓を「埋め墓」「捨て墓」「ヒヤ」等と呼び、遺体から切り取った遺髪などを埋めた墓「詣り墓」「アゲ

鈑戸の埋め墓 【霊峰大山のふもとの両墓制・1】

かつて土葬が主流だった頃、遺体(遺骨)と遺髪等を別々の場所に納める「両墓制」という墓制が行われていました。鳥取県西伯郡の大山町や琴浦町では両墓制の埋め墓が広く分布し、近年まで細々と両墓制が行われていたようです。今回、その埋め墓を3ヶ所も確認することが出来ました。 斎場&火葬場跡ではないのですが、貴重な葬祭遺跡なので3回シリーズで紹介いたします。 両墓制について 最初にも少し記しましたが、「両墓制」とは簡単に言えば、一人の死者に対して二つの墓を設ける習俗です。特に近畿地方で

鳥取市丸山の旧火葬場にまつわる怪談【山陰中央新報「因伯のむかしばなし」より】

今回鳥取に帰省した際、鳥取の秘められた歴史や火葬場のことを調べようと、鳥取県立図書館で調べ物をしました。 図書館には地元紙や有力紙に載っていた鳥取に関する記事がスクラップしてあります。その中に、鳥取・島根の地方紙「山陰中央新報」が2000年(平成12)頃に連載していた記事「因伯のむかしばなし」に、丸山火葬場にまつわる怪談が掲載されていました。丸山の火葬場の始原にも関係しそうな内容が含まれているので、掲載いたします。 採話者の名前は伏せますが、長年にわたり鳥取大学の教授を務め、

【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・5】 摩瑠山斎場跡

摩瑠山斎場は倉吉市の郊外にあった斎場です。鳥取中部ふるさと斎場が供用開始するまで使われていました。 倉吉市について 倉吉市は鳥取県中部の市で、2024年9月1日現在の人口は43,885人です。 古代から中世にかけて伯耆国の中心となった歴史の長い町です。 1953年(昭和28)に市制施行し、2005年(平成15)3月22日には東伯郡関金町を編入しています。 摩瑠山斎場について 摩瑠山斎場跡は倉吉市の北の郊外、馬場町の山あいにあります。供用開始がいつ頃かは不明ですが、鳥取

【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・4】 鳥取中部ふるさと斎場

倉吉市の郊外にある現役斎場です。 倉吉市について 倉吉市は鳥取県中部の市で、2024年9月1日現在の人口は43,885人です。 古代には伯耆国の国府、国分寺、国分尼寺がおかれ、中世には伯耆守護の山名氏の守護所が置かれました。江戸時代には鳥取藩の支配下に入り、商工業の町として栄えました。 1953年(昭和28)に東伯郡倉吉町を中心に9つの町村が合併し、倉吉市として市制施行されました。2005年(平成15)3月22日には東伯郡関金町を編入しています。 鳥取県内の4つの市のうち

【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・3】旧東伯火葬場跡

ここは以前に、さいば萌さんがYoutube動画で紹介されていました。 【廃墟】鳥取県琴浦町の火葬場【ダブル煙突】 - YouTube 動画で拝見して以来、一度訪れてみたいと思っていた火葬場跡です。 琴浦町の概要については、前項をご覧ください。平成の大合併によって2004年に誕生した町です。 【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・2】琴浦町営斎場|Yuniko note 旧東伯火葬場跡 場所の特定がなかなか難しかったのですが、国土地理院の空中写真と国土基本図で確認しました。

【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・2】琴浦町営斎場

中国地方最高峰にして西日本屈指の霊場・大山(だいせん 1,709m)のふもとの琴浦町にある斎場です。 琴浦町について 琴浦町は、東伯郡(とうはくぐん)の東伯町と赤碕町(あかさきちょう)が合併して2004年(平成16)9月1日に誕生しました。2024年8月1日現在の人口は15,235人です。 町名は、ここらの海岸を「琴ノ浦」と呼んでいたことに由来します。 町内にある「白バラ乳業」は、鳥取県内すべての学校給食の牛乳を一手にまかっています。・・・・というか、白バラ乳業以外に鳥取

【鳥取県中西部(伯耆)の火葬場訪問・1】桜の苑と旧米子市火葬場

前回、8月に鳥取に帰省した際は、鳥取県東部(江戸時代までの因幡国)の斎場&火葬場跡を訪問しました。今回は、鳥取県中西部(江戸時代の伯耆国)の斎場&火葬場跡を訪問します。  〇桜の苑(米子市)  〇琴浦町営斎場(琴浦町)  △旧東伯火葬場跡(琴浦町)  〇鳥取中部ふるさと斎苑(倉吉市)  △摩瑠山斎場跡(倉吉市) あわせて、斎場&火葬場跡ではないのですが、鳥取県の大山周辺に残る両墓制の埋め墓を紹介します。  ・大山周辺の両墓制・1-大山町鈩戸の埋め墓-  ・大山周辺の両墓制・2

【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・5 最終回】旧・因幡霊場と現役の因幡霊場

鳥取市の火葬は1921年(大正11)から1974年(昭和49)頃まで、50年以上の長きに渡って丸山火葬場が担ってきましたが、1974年頃に「因幡霊場」が新築されてそちらに移転しました。 その後、この施設も老朽化のため、2000年代に入って新たに現在稼働中の因幡霊場が建設されました。 旧丸山火葬場の紹介と鳥取市の概要については、前項をご覧ください。 【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・4】鳥取市の旧丸山火葬場跡|Yuniko note 因幡霊場 因幡(いなば)霊場は1974年

【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・4】鳥取市の旧丸山火葬場跡

現在、鳥取県東部の火葬は因幡霊場で行っていますが、大正時代から昭和40年代にかけての火葬は、鳥取市郊外の丸山というところで行っていました。その、昔の鳥取市の火葬場を訪ねました。 鳥取市の概要 鳥取市は鳥取県の県庁所在地です。市制施行されたのは1889年(明治22)と古い歴史があります。2024年7月1日現在の人口は182,483人です。 1570年代 戦国時代末期に当時の因幡守護・山名豊国によって布勢天神山城から守護所が移されました。1581年(天正9)には織田信長の命を