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夏の死闘 コックローチ編2023/7/17

ある金曜日の深夜、久しぶりに妹と電話で話していた。

🌙

最近は、つい妹の話ばかり聞いてしまって自分が話すのをやめているということに気付いてから、一人ですねて連絡をとっていなかった。

妹の周りには夫やその親のことを始め、憤り、怒らなければならない案件が多く、事情聴取みたいに順番にそれを聞き取らなければ気が済まなかったし、それは私がしなければならないことだと決めていた。

子育てをしている人が抱えるそうした事情は、どう考えても私の日常より圧倒的に重大で命に関わるような気がする。
誰にもそんなことを言われたわけではないが、自分の中に発生したそういう位置付けを前に、いつしか私は自分の話をするのをやめてしまっていた。
『だって私の近況を尋ねてくれないから』と心のなかで言い訳をした。
前は、尋ねられなくても話していた。話したいことを垂れ流すように話していた。
なんかめんどくさくなっちゃったのかな。

しばらく時が開いて、久しぶりに電話で話そう! と誘った。返事は快諾で、黙ってすねるのはよくないことだと思った。

🌚

電話が夜中になったのは、流行りの風邪にかかっている子どもたちの寝付きが悪く、時間がかかったからだという。聞くと、4月からずっと病院に行っているらしい。かかっては治り、治ってはまたかかり、子ども二人でお互いに移し合っている。上の子が行き始めた幼稚園でもらってくるようだ。
4月からずっと病院通い…。時々自分も移る…。そりゃあ疲弊するわ…と妹のことを思う。

ひとしきりその話を聞いて、私は聞かれる前に自分の話をし始めた。

夏休みにしたいことが思い浮かび始めたこととそのリスト。リストは順番に説明した。
妹も楽しそうに聞いてくれる。帰省した際にいくつかのことを一緒にできたらいいと思うし、お互いにそのつもりでいるのだという気がする。
それから、この前受けた大腸検査について。詳しく説明し始めた時、突然ブーンという音がして何か黒いものが頭上を通っていった。私は反射で立ち上がり、スマホを掴んだまま部屋のドア横に立つ。いつでも出ていけるように! 残像を目で追うと、壁に黒いものが止まっていた。
げー とか、おえーとか思いつつ、対岸の壁から壁に飛翔したわけだね、と冷静に把握する。虫だなー、虫。天井と壁の境目を歩いている。いや這っている。何の虫だろう。カナブンみたいな音で飛んでいた。カナブン、と思ったのは、前に住んでいた古い平屋に入ってきたでかいカナブンが台所の電気の紐に長く止まり、どうすることもできず困ったシーンが思い出され、それが夏になったばかりの頃だったからだ。
しかし、今這っているそれは緑じゃないし黒い。クワガタかカブトムシぐらいの存在感と形と大きさだと確認する。何これ。え? もしかしてコックローチ?
最近の専用殺虫剤には「コックローチ」と書いてあるのです。
伏せ字のGでもない時代の到来。

認めたくない信じられないあってはならないあるはずがない住み始めて今まで2年間出なかったのに嘘だろ?

と言うことは、叫びながら電話に向かって全部しゃべった。大きさがもっともショックだった。いや、いかにもキモいのはよく動く触覚だとも思った。
何より頭上を飛ばれたショックと心の傷から全く立ち直れない。
いくつもの述懐が超速で重なり、目の前で更新し続けている。

言葉にならない、けど伝えるしか助けてもらう方法がない。正確には、自分しかやる人がいない。でも無理。せめてそこに一緒にいてもらわないと何もできない。
そんなことを思いしゃべりながら叫び嘆いて、嫌でも目だけは物体から離さずに追う。
妹に、「スプレーないの?」と言われ、「トイレに置いてる!」「取ってきたら!」「でも今離れたら見失う」と言っている間に、物体は常に開け放してあるクローゼットの扉と壁の間に消えていった。
常にあちこちを開け放ってあるのも、暗闇を作らないためだ。すべて、コックローチを発生させないためにこうしてきたはずなのに。

スプレーを取りに行き片手で構えたが、クローゼットの扉を動かす勇気がない。これはお化け屋敷と同じ仕組みだ。出るぞ出るぞと思って想像し、出た衝撃が恐怖なのだ。お化け屋敷より最悪なのは、今のこれはただ騒いで素早く通りすぎるだけでは済まないということだった。どうにかして仕留めて、その死骸を何とかして消さなければならない。

とにかく、とにかく最悪すぎた。明日からの三連休、そんなつもりは全くなかった。明日は予定がないから日がな一日寝転がっていようと思っていた。
床にはいつも通り本が散乱しており(積み上げてあるのがいつしか崩れたまま)、どうしたらいいかわからないものを適当に入れた袋も転がっている。
何で急にこの部屋の状況を書いたかというと、だってコックローチを退治するには足場が必要で! 気付いたらこの部屋にはもう何ヵ月も前から布団を敷くスペースとご飯を食べる空間以外の足場がないから。
この期に及んでもまだ私はその事実を認めたくなかった。まだいける気がした。一人なら。いつも生活しているように、うまくよけて歩きながら私は生きられるし、コックローチだって殺せる。

ところが、ここには電話越しとはいえ妹がいた。
クローゼットの扉と壁の間に消えた事実と状況を妹に見せるため、私はビデオカメラをオンに切り替えて通話していた。クローゼットと壁だけを映したかったが、必然的に床も映った。妹はすかさず、「本をどけなきゃね」と言った。何回も言った。でも…。でも…。と私は抵抗したが、妹が私の部屋の足場の無いありさまを注意するでも嘆くわけでもなく、何なら遠慮がちにしかし譲るわけじゃなく繰り返してくるので、さすがに認めるしかなかった。これは、片付けて床に空間を作らなければどうすることもできない。それは、明日1日かけてしっかりとした掃除をする、ということを意味した。それゆえの絶望! 私はごろごろする予定だったのに!

妹の応援と号令によって、長い棒(クイックルワイパー)を取りに行き、遠くからクローゼットの扉を動かしてみる。その前に、さんざん無理できない嫌だ最悪怖い気持ち悪い嫌すぎると抵抗し、それでも言われるまま、クローゼット近くのカーテンレールに掛けてある服を移動し、カーテンを揺らして反応を見たりしている。
物体はもういないだろうというのが半分で、でもじゃあどこへ?
見つけたとして、このスプレーを吹き付ける勇気があるのか? 飛ぶのでは? こっちに来たらどうする?

どうか居てくれというのと、もう居ないでくださいという願いも半々で、祈りつつクローゼットの扉を動かしたが、どこにも姿がない。クローゼットの中も黙視で確認するがいない。

嘆きとちょっとの安堵。
この家のなかで発生したとは考えられなかった。家には、2箱分の、部屋の数とサイズには多すぎるほど毒餌(ブラックキャップ)が置きまくってある。たとえいなくとも常にその存在を意識して、居る目で空間を見つめ、それじゃないのに錯覚を見つけてはぎょっとする……という、間抜けだが本人は必死の生活を送るこの私が、あの大きさになるまで見過ごしていたとは到底思えなかった。電気代節約の意図で、開けられる日は窓を開けているのが原因のような気がした。その日も、網戸があるのだから大丈夫、と窓を全開にしていた。
ひとまず対峙するために、窓を閉めてクーラーをつけ、布団を畳んだ。

クローゼットのなかのものを叩いたり振動を与えたりして様子を見たが、変化はなかった。
この家に来たのは間違えた! と思って逃げて行ったのかもよ、との妹の言葉を半分は信じた。
しかし、このままではいけない。
幸い、私は燻煙剤を2個持っていた。
明日は予定を変更してこれを炊こう。
これを炊くということは、その後、大規模に掃除をするということが付随するけどいいか? と自分に聞いたけど、仕方ない! と返ってきたので決まった。

その日は電気とクーラーをつけたまま寝た。妹は私が落ち着くまで付き合ってくれた。

興奮がさめない頭で考えたのは、しかし、自分が完全に覚醒したという実感だった。休日や夜はぼーっと過ごすのもいいし、ここ何週間もそうして寝転がって、日がな一日スマホを見たり寝たりして過ごしてきた。したいことも思い浮かばず、寝たからといって楽になるわけでもない。ただ理由なく寝てただけ。起き上がる理由がないから。
明日もそのつもりでいた。
でも、自分で何とかしなくてはいけない危機に瀕したことにより、自分のなかのセンサーがぐいっと立ち上がった感覚をおぼえた。私は最近やたら養老孟司が気になっていたけど、そうか。そういうことか。虫好きの養老孟司は、本来の野性を忘れている現代人に対して自然に帰れと言っていた。何の実感も得ないまま、ただタワマンに住んでいるんじゃないよ。って。
私が住んでるのはタワマンじゃないけどな。でも、すべての自然と自分に不都合なものを強制的に排除した気になって生きているのは同じだ。だからぼーっとしてたんだな。何も起こらないうちはそれでいいと思ってきたが、実際、このぼんやりとした虚無の自分をまたしんどく思っていたのも事実だった。
しかし自分だけでは打つ手が無かった。そんな時、コックローチが現れた。
いざその時になったら起き上がり、やるしかないと思うんだな。それで動くならよかった。自然の流れにしたがうよ。だから明日は燻煙剤と大規模な掃除。
気持ちと身体が一致した実感があり、これかとわかった。

🌄

翌日は燻煙剤を撒くための準備から始まった。
覆えるものはビニール袋で覆う。服、布製品、ぬいぐるみ。無理せずできる範囲で。
部屋に置いておけないのでついでに布団をベランダに出して干す。
洗う日を待っていた毛布を洗濯して干し、ラグも洗う。
ファンヒーターを段ボールにしまう。
電気ストーブを段ボールにしまう。
と思ってクローゼットから出した段ボールを部屋の中央に置いたらコックローチが現れた!!
ぎゃーーー!!ーーー!!!

妹に電話する。手を伸ばし、スプレーを箱の中に向かって吹き掛けまくる。白くもうもうとしている。
なのに死なずに這い出してきた!
ぎゃーーー!!ーーー!!!

しゃべり叫びながらスプレーを吹き掛けて追いかける。しかし弱る素振りもないまま、またクローゼットのなかに消えていってしまった。

はあ。

なにこのゴキジェット。全然効かないじゃん。なんなの。2年前(それ以上かも)のだから? ノズルが取れて使えないから? あるいはデカすぎて効かな$>{&[@*!!!
きも…っ。

とにかく燻煙剤を撒くからもういいから。と自分をなだめつつ、スプレーを持つ手が震えていた。こ!こわすぎっ…。

食器や諸々にビニールをかける。
大変な準備を完遂して、火災報知器にもビニールをかけて、いざスイッチオンする。
二部屋に一つずつ。必ず効くはず。

3時間留守にする必要があった。この期にコインランドリーで羽毛布団を洗ってこよう。

途中のスーパーで水分補給する。熱中症になってもおかしくない気候と諸条件。

コインランドリーと、そのそばの雑貨屋で赤いアームカバーと、薬局で新しい殺虫剤と、喫茶店でカレーを食べて、そして家に帰った。
死んでいますようにと神様に祈る。

部屋の窓を開けて掃除機をかけていくと、部屋の隅にコックローチがひっくり返っているのを発見した。

ぎゃーーー!!ーーー!!!
やったーーーー!!!!!!

妹に電話してカメラをオンにし、妹と子に、死んでることを確認してもらう。
昨夜から今日にかけて見ていたやつと同じかどうか不安になる。同一人物と考えていいのではないか? と妹に言われる。

そこからが大変。
見たくない、間接的にでも触りたくない。
サングラスをして、割りばしで紙袋にすべりこませた。

それだけで1時間かかった。

あとはもうひたすら掃除機をかけて、物干しから引き上げ、ビニール袋から出した。
部屋がきれいになった。

どこから入り込んだのか? 二度とありえない!
ということで管理会社に電話して、業者に来てもらい、網戸の隙間や外壁の管の穴を埋めてもらった。
誰も、『ゴキブリなんてどこでも出ますからどうしようもないですよ』なんて言わなかった。みんな、ちゃんと『害虫』って言ってくれた。
業者の人に、燻煙剤を撒いたことを褒められてうれしくなった。
それで、『この時期がいちばん出やすいから、この先見なければもう出ませんよ』と言われてホーーッとしたけど、『もう出なかったらもう出ませんよ』って、当たり前のこと言ってるだけだよな!🌟
って思ったけどいい!

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