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タオル屋の「分人」
推しと「分人」について
友達のニイニイちゃんが、noteに平野啓一郎の『私とは何か 『個人』から『分人』へ』(講談社現代新書)を読んだと書いていた。
(*「分人」とは…「本当の自分」を探し求めたり、「裏表がない」ということがよいとされる傾向にあるなかで、作家の平野啓一郎が提唱した、自分というのは一つではなく「分人」に分かれており、「あれもこれも自分」という考え方。)
ニイニイちゃんが、
「ああ。あの人の分人がそう言ってんだなー」と思えばがっかりしたり憎らしく思ったりせずにいれるな。あとは自分がなんでこんなことを思ってるんだろう? と思った時にちょうどいいなと思った。
と書いているのがすごくいいなと思った。
あと、GENERATIONSの数原くんのエピソードで、
「心配すんな!ついてこい」って分人の立場でああ言ったんじゃないかなーと思った
という解釈もすごくおもしろかった。
人に対して、常に一致した人格や、事後も事前も変わらないことを求めるのって求めすぎだよなって思った。
ニイニイちゃんがGENERATIONSっていう推しに対してこう思ってるのってすごく愛情深いし立体的で発展的だなって思う。
タオル屋の「分人」たち
私も最近、「分人」にまつわる体験をした。
先日、妹と一緒にショッピングモールの中にあるタオル屋さんに行った。そこでは名前を刺繍して入れてくれる。(1文字33円)
妹は二人の友達の出産祝いに子どもの名前を入れてもらうことにした。
タオルはかわいいし実用品でもあり、見ているだけで楽しく、私も自分のぶんと人にあげたいタオルを選んだ。
お店は混んではいなかったがたびたびお客さんが訪れ、名入れを依頼している人もいた。
店員さんは一人で、平日ということもあり、これぐらいの客足なら「一人で対応」、いわゆるワンオペも現実的によくあることなのだろうとは思われたが、レジも、プレゼント包装(その確率の高いお店だよね)も、もしかしたら名入れの刺繍も全部一人で行うとしたら仕事が多すぎると思った。
名入れをするための機械(ミシン?)もレジ横に設置してある様子だったので、余計にそんなことが気になったのかもしれない。
少しの間レジの前で並んだ後、私と妹の番が来た。
二人で大量のタオルを置き、妹は二人分の名入れとプレゼント包装、私は二人分のプレゼント包装をお願いした。
それだけでも大変だなと思った。名前を入れるタオルとその位置、刺繡糸の色、名前の大きさ、フォント、ひらがなかアルファベットか。全部選択することができる。
複雑だが間違えてはいけないし、人の「名前」がかかわると途端に全員に緊張が走るのを感じた。
さらに、妹の場合は、名入れをするタオルと、しないタオルを組み合わせてプレゼントしようと考えていたからよりややこしい。
店員さんはわれわれより少し年上の、丁寧で貫禄がある雰囲気の人だった。名札に「研修中」とあるがそうは見えない落ち着きも感じる。でも、ところどころぶっきらぼうで、言葉の細部に配慮が足りない感じもした。
たとえば私が選んだピンクのウサギのタオル3枚は、レジ台の上で妹がほつれを発見し(妹はすごく目が早い)「ちょっとここほつれてる……」と私に言うと、店員さんが私に断りもなくさっと取り上げて、「これはもう売ることができないです。在庫が無いので2枚しか買っていただけませんすみません」と流れるように通達する感じ。あ……あ、そうですか、どうしようって考える隙間もなくて、えっと……というこちらの気持ちは置き去りというような。
そこで、私はムッとするよりも、「分人」のアイディアを当てはめてみることにした。その時点で、明確に「分人」と思えたわけじゃないけど、この人は基本的にはいい人なんじゃないか? と思うことにしてみたのだった。
根拠はないが、あるとしたら、さっきお店の看板を子どもが倒してしまった時、すぐにやって来て「お怪我はありませんでしたか?」と言ってくれたこと。これは普通のことかもしれないけど、子どもと赤ちゃんを連れていた私達にはとてもありがたかった。
だから、とくに意地悪とか冷たいとか厳しいとか、そういう人ではないのだろうと思った。
だってともかくワンオペなのだから!
店の都合か何なのか知らないが、たった一人でできることは少ない。いくら暇なお店でも、店員は二人必要だと思う。一人なら一人分の働きしかできないわけで、それによって生じる不都合を向けられるべき相手は本来は店(会社)だ。だから、店員さんは堂々としていたらいい。
この店員さんは、その不満や苛立ちを隠せないタイプなんだろうなと思った。
実際、妹が名入れの注文をしながら「何時ごろできますか?」(その日に仕上がるというのは事前に電話で確認してから行った)と聞くと、「全部お会計が済んでからお伝えしますね!」と言われて、妹はムッとしていた。
とにかく店員さんに余裕がないのだった。
それと、当たられるのはちょっと怖いけど、それが賃金に見合う態度と働きよ、とも思った。
会社は、店員さんにニコニコと愛想よく、いわゆる感情労働までしてほしいのならばそのような待遇を用意するべきだ。
でも、余裕のなさによる、やや冷淡にも見える接客の咎は、まずは目の前にいる店員さん本人に向かってしまうから、ずるい構造だと思う。妹もムッとして普段より強めの口調で応酬していて、つまり現場の全然悪くない人たちが対峙してしまうことになる。
私はというと、バランスを取るためか怖い店員さんの機嫌を取りたかったのか妙にへらへらとしていて、だれもきっと本来の自分じゃないなと思った。
40分後には名入れができているということを最終的には教えてもらい、私たちは店を出た。
妹はちょこっと怒っていたが、私が「でも、あの人たぶん悪い人じゃないと思う。余裕がなさすぎてああなってるだけだよ」と言ったら半信半疑ながら、その次に行った本屋でも察しが悪い店員に当たってしまったと嘆いていた。
察する時代はもう終わった
たぶんなのだが、時代が変わりつつあり、お客は察してもらうことを期待したり要求するのではなく、してほしいことを店員に明確に言葉で伝えることが必要とされるようになってきたのではないだろうか。
「わかるやろ!」とか、「察しろよ」とかはもう通用しない気がする。
これまでは、言わなくてもわかってもらえるサービスを当然のように享受してきたけど、もうそういう時代ではなくなってきた。
とまどうし不便だけど、もしかしたら、賃金に見合う働きとはそういうことなのかもしれないとも思う。
言えば、無理じゃない限りやってくれる。欲しいものは自分から要求する。お客が何も言わなくても、添えて差し出してくれる時代は終わったのだろう。
それを感じたのは、ワクチン接種直後に付近のオシャレなカフェに入った時。川に面した変な作りの店で、昼どきでもあり、何か食べなければという義務感を抱えていた私は店内からかけられる声に抗わず、ふらふらと入ってしまったのだった。
細長い変な店で🚰
地下一階が出入り口兼注文&レジで、入店後はここに立ち寄りすぐに注文&会計するシステム。
私は特に意思なく入ったので決めるのが相当難しかった。しびれをきらして、若い男の店員が私の相談に乗るために派遣されかけたので(そーゆーのもイヤ!)、慌ててタルトフランベというキッシュとピザの中間みたいなやつをオーダーした。
お金を払うと、トレーとからのコップが渡されて「お水は〇階と〇階にあります」と言われる。
なぜかわからないが、その時点でもう帰りたくなっている。
急な階段を上がり、一階に着く。客は一組しかおらず、がらんとしているのでもうここでいいや。見回したが水のボトルは置いていなかった。
なんで? なんなんだよいったい。どの階にも置いとけよ。水のためにいちいち階段上り下りさせんなって。と一気に罵詈雑言があふれ出す。
さらに急な階段を伝えば上に2階、下に2階ある気がする(知らない)。上階から話し声が聞こえるから混んでいるのかもしれないし、そもそも水のために階を変える選択肢は私には無い。なんなんだよ。
食事後の皿は置いて去ればよいシステムらしく、片づけるために店員が階段を上って各階を横断して次の階段に向かう姿も頻繁に目撃する。その隙間に、私の空いたコップに水を入れてほしい。でもそれはここでの店員の仕事ではないらしい。なんだよそのルール。私は脳内で不満を垂れ流すことが止まらない。目の前を行き交う店員に直接交渉するという発想はなぜか無かった。
タルトフランベを運んできた店員に、「水って何階でしたっけ?」と聞くと、「〇階と〇階です」と答えて去って行った。水いれてくださいの意図伝わらなかった。そしてタルトフランベ小っさ!!!
なにこれーオシャレを意識しすぎやろーとさらに脳内不満をたらしながらフォークで突っつく。おいしい!!
でもやっぱ小っさ!!! これで1000円?! 場所代かな。こんなのでお腹いっぱいにって誰がなるんだろう。縦に長い建物であるのも場所代節約のためだろうと推理する。
水はめんどくさいからもうやめた。無いとわかったからか、一口ごとに水が飲みたくなった。5分で完食し、ワクチン接種に備えて持参していたお茶を飲み、店を出た。
どうしたらよかったのかな?
歩きながら、自分の不満と不機嫌は仕方がないことだとしながらも、ふと、「お水を入れてきてもらえませんか?」って頼めばよかったんじゃないかと思いついた。いや、断られるか、店のマイルールを再び説明されるだけだろうと予測してはなから諦めてしまったのだった。たとえば、ワクチンでつらいからとか、足が悪いからとか、何でもいいから理由を付けてもよかったのかもしれない。でも私は元気だった。自分で取りに行けるぐらい元気なら嘘をついてはいけない気がした。
何それ。何なのその馬鹿正直。と、今となっては思う。どんな理由であれ、たとえ嘘であっても、してほしいことがあったらはっきりと口に出して頼むべきだ。言ったらきっとやってくれたと思う。
そっか、察してほしいじゃもうないんだな、と思った。私は察することができるし先回りして動くのが好きなタイプだけど、あるいはそれもやりすぎなのかもしれない。そもそも自分を基準に相手に同じことを求めてはいけないのだろう。私には、店員には賃金以内のことをやってくれたらいいという思いもあるのだし。
店のルールに自分の要求が合わないことはあり、最初からわかっていたら入らないのだがうっかり遭遇してしまった場合、してほしいことを頼む、溜めずに言う、というのが大事なのだとわかった。
たとえば足が不自由な人とか、赤ちゃん連れの人とか、そういう人ばかりが助けを求めたり、要望を伝えたりするのが必要、ってわけじゃないんだな。私だって同じ。何か自分のこと「健常者」って思ってた。私だって言えばいいんだ。
タオル屋の「分人」の別の顔
40分後、名入れが完成したタオルを受け取りに行った。妹たちはフードコートで待機&休憩中。
さっきの店員さんに挨拶し、完成品を出してもらって確認し、私はさらに追加でタオルを買って受け取った。店員さんはさっきよりも親切心と親しみが前に出たような雰囲気で、私は、やっぱりいい人だったんだなさっきは余裕がなかっただけで、と思った。最後に、ショッピングモールでやっていた抽選券を購入金額分よりかなり多めにくれて、「これどうぞ。あんまり数えずに渡しちゃった」と言っていた。たぶん、自分の裁量の範囲内ではざっくり相手にとって良くしてあげたいという、大ざっぱなサービス精神の人でもあるのだと思った。もちろん私が(びびって)ニコニコしていたからというのもある。
ちょっとわかってきた。本当はいい人、って、思えたら勝ち。
フードコートに戻り、妹に報告すると驚いていて、「店側が悪いよね、ひとりは絶対無理だよ」という結論に至っていた。
フードコートのマクドナルドとサーティワンアイスクリームの店員さんはそれぞれ鬼親切で、勇気を出してお願いしてみると、商品を買っていなくても(少しは買ったよ!)ストローとスプーンを余分にくれて、泣きだした赤ちゃんともども救われて、全員オールハッピーになった。
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