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憎むあなたに伝えたい言葉が「大好き」だったなんて。

20回目のカウンセリング。きつかった。カウンセリング中、ラブホの室内の青い光が見えて、あの頃に戻ったような感覚だった。出会い系で知り合った男とラブホに来ている感じ。

気づきたくない気持ちを知った。ずっと、父に対しては憎しみしかないと思っていた。でも、私の中の私は言った。「ちゃんと、こっちを見て。大好き」と。

あんな人に対して、大好きという感情があった。ああ、そうだ。あったんだ。その気持ちが初めからなかったのなら、こんなにも自分を痛めつけてまで、いい子でいようとしていなかった。つけられた傷をなかったことにしなかった。心が死ぬほど我慢なんてしなかった。

憎まないと、やっていられない。そう叫んだ、カウンセリング中の私。本当にそうだよな。「好き」を持ち続けていては、生きていられなかった。

正直、父を「好き」と言うには激しい抵抗がある。憎い相手だろ。早く死んでほしいヤツだろうと思う。でも、好きだと、愛されたいと、ぎゅっと抱きしめてほしいと願っていた自分は否定したくない。

そういう気持ちもあったよね。叶わなくて辛かったよな。苦しかったよな。ちゃんと、「お父さん」が欲しかったよなって自分をヨシヨシしてあげたいし、受け入れることが難しい「好き」でも持っていていいんだと言ってあげたい。


カウンセリングから1日経って、ふと思った。相変わらず性的な強迫観念みたいなものが苦しかったけれど、性行為=愛されている証拠ではないのかもしれない、と。そんなこと、頭では分かっていた。でも、心では分からなかった。

そういう行為が、もし愛の証拠なのだとしたら、なぜ私のそばには過去に性行為をした人がいないのか。愛をくれないのか。去っていったのか。説明がつかない。

そう思った時、すとんと腑に落ちた。ああ、私は利用されていたことを認めたくなかったんだな、って。

10代のガキでも分かっていた。体も心も利用されているだけなんてこと。でも、それを認めてしまったら、あまりにも自分が可哀想すぎた。

私は周りの男に利用されているんじゃない。私が上だ。私が利用してるんだ。そうやって思うために、男が手を出しやすい服装にしてた。

なめられているから手を出されたんじゃない。私が手を出すように仕向けたから手を出された。私の勝ちだ。これはそういうゲーム。だから、私はみじめじゃないし、傷ついてもいない。

あの頃の私「愛ちゃん」はそう思っていたってこと、思い出した。

手を出したくなるのは利用じゃなくて、愛。好きとか、気になるとか好意とか、その程度の小さな愛だけれど、たしかに愛と呼べるものなのだろう。その小さな愛が、いつか大きな愛に代わるかもしれない。ずっと私をひとりぼっちにしない人になるかもしれない。そんな気持ちもあった気がする。

だから、「体を捧げる」なんていう言い方をしてたんだろう。私の体も心も誰かに捧げるためにあるものはないのに。そんな苦しくて悲しい使い方はしなくてもよかったのに、そうしないと心の真ん中にぽっかりと空いている穴が埋まらなかった。

体も心も捧げても埋まらなかった。何をしてても、誰といても、ふとした時、頭にその穴の絵が浮かんできて、ああ、寂しいとなっていた。なんで穴が埋まらないんだろう。できることは全部したのに。どうすれば埋まるんだろうと苦しかった。

とても悲しいことだけれど、私がされてきたのは愛じゃなく、利用だった。心で、そう分かったら涙が流れた。でも、少し楽になった。その日限りの人に触られた時、本当は怖かった。触らないでって言いたかった日だってあった。帰りたいって言いたい時もあった。気持ち悪いって怒りたい相手もいた。

そういう言葉を全部飲み込んで、殺して、愛してくれるかなって期待した。私がくっつくと、眉を寄せて少し困った顔をしながら距離を取る父親の代わりがほしかった。いい子だねって、大好きだよって、かわいいねって言ってくれるお父さんに抱きしめてほしかった。

性欲処理機でいい。誰にも心は明け渡さない。世界は全部敵だと私は、よく言っていた。

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