「空が綺麗」を心で知った日
私は人間だったんだな。そんな当たり前の事実を、電車に乗りながら、ゆっくり噛みしめた。
6回目のカウンセリング、向き合ったのはどうしようもなく嫌いなあの頃の私だった。この子のスイッチが入ると、目に入るものすべてに苛立って、死にたくなる。だから、この子が嫌いだった。
出てきてほしくない。ずっと暗い部屋の中にいてほしい。自己主張してほしくない。そう思う一方で、その自分のほうが本物っぽいような感じがしていた。今を生きる自分が、まがい物みたいな苦しさ。言葉では上手く説明できない、その辛さが苦しかった。
攻撃的なこの子の口からでるのは、あの頃言えなかった親への怒り。怒りながら泣ける意味が分からない。なのに、鼻水を垂らしながら目をギュっと瞑り、親を罵倒しながら泣くという行為はすごく新鮮で嫌いじゃなかった。
世の中の人、すべてが嫌い。目に映るものすべてが汚れてみえる。青い空も手を繋いで幸せそうに笑い合う親子も無邪気に騒ぐ子どもも、ぜんぶ苛立つ対象。消えてしまえばいいし、どうせお前らの未来なんてたかが知れてて不幸だよ。そう思わないと、生きてこれなかった。救い上げられなかった自分が惨めで、みっともなくて、可哀想すぎるから。
完全に心がすっきりするには、まだまた時間がかかる。私は複雑性PTSDの治療の第一歩もまだ、踏み出せていないのかもしれないと今更ながら痛感する。ただ、今回のカウンセリング後は空がとても綺麗だった。帰り道、青空を眺めて、ああ、すごく綺麗だなと柄にもなく思った。
体に感じる風は生暖かくて本来なら気持ち悪いものなのに、なぜかすごく心地よく感じた。すれ違った親子連れ。笑う奥さんの表情や親に手を繋がれた子どもの姿が、微笑ましいとすんなり思えた。
自分は人間だ。そんなこと、産まれた時から知っているのに、私は人間なんだなという言葉が頭に浮かんできて、泣けた。
あの地獄みたいな日々を乗り越えることができたんだな、だから今があるんだ。頑張って乗り越えてこられたんだなと、電車から景色を眺めながら思った。過去なのに、ちゃんと過去にできてないことが私にはたくさんあると思った。
悲しみや怒りは、感じた時に表現したほうがいい。溜め込んで我慢して、なかったことにしてみても、結局あとでこうやってツケがくる。人の感情は言葉や態度に出さないかぎり、なかったことにはできない重みのあるものなのかもしれない。
カウンセリング後、あの子のスイッチが入っても今までみたいに目に映ることすべてに苛立ちはしない。イラっとすることはまだあるけれど、頭がおかしくなりそうな憎悪や憤りは今のところ、ない。
夜は、まだ寂しくて眠れない日がある。でも、昨日はひとりで心も体もゆっくり静かに休められる時間があるっていいなと、なぜか思えた。ひとりだからこそ味わえる穏やかさや静寂があるのかもしれない。
カウンセリングを始めて2ヶ月。変わったのは、謎の体調不良に悩まされなくなったこと。お腹が気持ち悪くなって目が覚めたり、1週間くらい体が重くて熱っぽい感じがあってしんどいことがなくなった。風邪だと思ってたけど、あれは自律神経系のSOSだったのかもしれない。
それを彼に話したら、「カウンセリング後は雰囲気、ちょっと違うもんね」と言われた。どう違うのかと聞いたら、「なんか丸い。普段がトゲトゲしいわけじゃないけど、カウンセリング直後は雰囲気が穏やかというか、丸いというか…。今週は特に、そう感じたよ」と言われた。
「今週は私もスッキリ感があったんだよね」というと、「やっぱり。そうだよね」と言われた。つくづく、この人は私のことをよく見ていてくれるんだと思って、嬉しくなった。
その反面、他人がそうやって気づくのに、なんで親は私のそういう変化に気づいてくれないんだろうと悲しくもなった。
やっぱり、自分のことで精一杯な人たちだからだろうか。今も昔も変わらない。監視はするのに、私の心には何も気づかない。だったら、その監視には意味があるのだろうか。自己満足な監視から抜け出したい。
バラバラになった自分や感情を、どうひとつにしていけばいいのか自分には分からない。完全に周りを信じてもいない。きっと、こんなに親身になってくれるカウンセラーのことも心から信じれてはない。どこかで人は裏切るものだと心が覚えてる。
でも、頑張りたい。変わりたい。楽になりたい。肩の力を入れたままで生きていくのは、もう疲れた。頭を空っぽにしながら生活できる日がいい。