夏子の話②:幸せなき理想の追求
2004年10月30日、夏子は初めて新聞に載った。「『ごみゼロ宣言』全国普及へ」という見出しに「神戸大女子大生も応援」という副題つきだ。「神戸大」だけではなく「女子大生」とついたところにほんの少しだけ引っかかったが、そんな違和感はあっという間に忘れた。それよりも、当時はまだNPO立ち上げの準備中で夏子自身何が起こっているのかよくわからない状況のなか、これは思っていたよりも大ごとなのかもしれないという緊張感の方が強かった。その一方で、新聞に載ったことがちょっと誇らしく、自分の現場を持てたという嬉しさもあった。
その後さまざまなメディアが取材に訪れた。一番の有名どころではイギリスのBBCである。最初は張り切って対応していた夏子だが、年に10回ほどのペースで取材をこなすうちにだんだん自分が消費されているような気持ちになってきた。特にテレビでは20代女性という点がよくフィーチャーされた。実際に上勝のことを紹介してくれた人から「今は若い女の子がやっていることが価値になっているけれど、今後は戦略を考えたほうがいい」と言われたこともある。社会人経験が浅く、環境問題について体系的に学んだわけでもない夏子としてはそんなものかと受け入れた。
講演会の依頼も多く、月に1~2回は全国のあちこちで自治体や市民団体が主催する場で話をした。そうして招かれた場では「田舎だからできることでしょ」とお門違いの批判を受けることもあった。都会で育った夏子自身、四国の小さな町でできることが都市部でそのまま応用できるわけではないことは百も承知だ。地元の食材が手に入りやすく消費を煽る看板もない町では、ちょっと頑張れば無駄のない暮らしは可能だし、「美しい世界」を実現しやすい。そんな応用の利かない事例を都市部で話し、綺麗ごとだと捉えられるたびに虚しさを感じた。それでも求められる限り、どこにでも出向いて話した。
当時の夏子が追求していたのは、上勝からごみゼロを広げていくという使命である。初めての現場ということもあり、夏子は地元のおばあさんたちと一緒に不要になったこいのぼり等のリメイク品を開発・販売したり、地域の小学生と一緒に住民同士が不用品を交換できるスペースを作ったりと精力的に活動した。しかしそうした取り組みを進めるうちに、本当にごみを減らすには単に分別方法を変える云々の話では済まないのではないかと考えるようになった。
ごみ問題の根底にあるのは「モノを手に入れたい」という人間の欲望だ。その欲望にどう対峙するかを考えることは、どう生きていくのかを考えるのに等しい。無駄のない暮らしを実現するためには、もしかしたら1人ひとりの人間が生き方に対するマインドセットを大転換しなければならないのではないか。そんなことを考える一方で、新しいものを買いたいとも思ってしまう自分との折り合いのつけ方もわからなかった。
上勝の住民のなかにはNPOの活動に対して疑問を持つ人もいて、夏子の活動が100%歓迎されているわけではなかった。そんななかでメディアに取り上げられると、住民の目が余計に気になってしまう。「受け入れられたい」という気持ちとNPOを引っ張る責任感が相まって、「まず自分が無駄のない暮らしをしなければ」と自分に対して過剰なプレッシャーをかけるようになった。
小さな町では暮らしぶりが他人からほぼ丸見えだ。だから隣町のコンビニに行くことさえ憚られたし、買い物中は停めてある車が誰かから見られないかとヒヤヒヤした。そんな生活の反動から、休日に徳島駅前のそごうで洋服を爆買いしてしまったこともある。もちろん買った服は上勝では着なかった。
せっかく入った現場で、住民によく思われたい。そんな八方美人的な考えが自分の首を絞めていた。あまりのストレスで夜中に「ごみゼロ!」と叫んで起きたこともある。それでも当時の夏子はそんなプレッシャーすら、自分の活動を進めるうえで必要だと思っていた。
そうしてガチガチに凝った頭がふと緩んだのは、兵庫県宝塚市に住む姉の家を訪ねた帰り道のことだ。夏子が育ったのと同じような街並みを歩くなか、ふと漂ってきたカレーの匂いで、夏子は自分の苦しさに気が付いた。
移住して4年、初めての現場から理想を発信しようとがむしゃらに頑張ってきた。しかし果たして自分はこれからも無理をして、育った環境からかけ離れた小さな町で聖人君子のような生活を送り続けたいのだろうか?ごみゼロを達成したとしても、たぶん幸せにはなれない。そう気付いた夏子は、もう区切りをつけようと思った。
上勝に移住して4年目に、学部時代の恩師の勧めで大学院に籍を置くことになった。そして修士課程の1年目が終わる頃、4年間に及んだ上勝生活に終止符を打ち、神戸に戻った。
Image by Kohji Asakawa from Pixabay
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