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夏子の話③:新たな世界

大学院での研究生活が終わりに近づいた頃、新たなチャンスがやって来た。今度は神奈川県の葉山町役場がごみ問題担当者を探しているという。上勝よりも都会で規模の大きな現場の話に、夏子はまた飛び乗った。こうして2009年、夏子は葉山に移った。

葉山での仕事は充実していた。実は上勝でのごみゼロの取り組みは夏子が移住する前から始まっていたことであり、夏子が主に担っていたのは発信者としての役割である。そのため取材や講演で話しながらも「とはいえ自分がやったことじゃない」という意識が常にあった。一方葉山ではゼロから自分で取り組むことができた。特に、町が推進する生ごみ処理器「キエーロ」を使い始めた住民のごみに対する意識が変わっていく場面に立ち会うのは面白かった。夏子の心が動くのは、いつだって生の声に触れたときだ。

一方、立場が行政に変わったことで良くも悪くも視野が広がった。NPOでの活動は「いいことをしている」と好意的に見られやすいが、行政となると納税者である住民の見る目が違う。加えて行政ならではの事情も見えてきた。さまざまな住民を相手にする以上、当然バランスを配慮しながら物事を進めなければならない。以前は行政批判をしていた夏子だが、見えていなかった現実を目にしたことでもはや無責任に「こうすべき」とは言いづらくなった。当然講演会でも歯切れが悪くなった。

とはいえ葉山町でのごみ減量施策はうまくいっていた。その風向きが突如として変わったのは2010年のことである。町の焼却炉からダイオキシンが発生し、それを機に町長主導のごみ政策に反発していた議会が予算を凍結。夏子は何もできなくなってしまった。

当時、夏子には大手商社で働く恋人がいた。若かった夏子がかつて「悪」だと思い込み、知ろうとしなかった大企業である。そんな世界で生き生きと働く恋人との付き合いを通して、夏子の関心は民間企業に向くようになった。この消費社会を動かしているのは大企業だ。けれど夏子はそれらの企業がどういう行動原理で動いているのかまったく理解していなかった。

ある夏、その関係が突如として終わった。それまで考慮すべきだったものが突然なくなり夏子はしばし呆然としたが、なんとか立ち直らなくてはいけない。すでに30歳になっていた夏子はこのとき初めて、自分がどう生きたいのかを考えた。上勝にしても葉山にしても、これまでたまたま向こうからやって来た話に乗り、期待されることに応える形でやることを決めてきただけである。そして、なんとなく次は恋人次第で人生を決めるような気がしていた。

専門家的立場であったはずの自分は、今や予算凍結の煽りでその役割を発揮できない状態だ。けれど本当はもっと、それも大きな規模でごみ削減を進めていきたかった。さらに民間企業で自分の知らない世界を知りたいという気持ちも芽生えた。そこで思い浮かんだのは、以前学会で知り合った人が所属するシンクタンクだった。調べてみると、廃棄物チームがある。知り合いの、知り合いの、そのまた知り合いからその人の連絡先を聞き、話を聞いた。そうして話はとんとん拍子に進み、2012年の春からそのシンクタンクで働くことになった。

転職した夏子は以前とは比較にならないほど大規模な仕事を手掛けるようになった。世界各国に出張するようになり、各地の都市ごみ問題や廃棄物政策についてリサーチし、現地や日本の行政に提言する。その規模感も、民間企業で働くことも、東京での生活も、すべてが新鮮だった。

特にやりがいがあったのは、家庭における食品ロスの実態調査だ。実は食品ロスの半分は家庭から出ているのだが、その実態はよくわかっていなかった。そこで夏子はイギリスの事例を参考国に対して調査を提案。実際にある政令指定都市で行った調査からはついにその実態が明らかになった。

けれど、シンクタンクの仕事はそこまでだ。その先の食品ロス削減政策を決めるのは議員や自治体である。実行までかかわることができない分、自分の仕事が本当に変化につながっているとは実感しづらくなった。夏子にできるのはあくまでも提言であり、政策を決めるのは自治体の担当者や議員だ。現場で実行できないもどかしさを感じた。

転職して収入は倍増し、手掛けるプロジェクトの規模も大きくなった。傍から見れば華麗なるキャリアアップである。しかし夏子はどうしても何か遠回りしている感が拭えず、その気持ちは今も続いている。

Photo by Dino Sabic on Unsplash

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