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夏子の話①:ごみの島が変えた夢
夏子は日本有数のシンクタンクで働く研究員だ。大学在学中からごみ問題に興味を抱き、環境先進国デンマークに留学。その帰国直後に徳島県上勝(かみかつ)町に居を移してNPOを立ち上げ、町のごみ削減に取り組む。その後母校に戻って修士課程を修了すると、葉山町役場の職員として行政の立場からごみ半減政策を推進。2012年に日本有数のシンクタンクに転職し、現在は主に官公庁への政策提言を行っている。
研究、現場、地方自治体、そして国家行政へのコンサルティングとあらゆる立場でごみ問題に取り組んできた夏子のキャリアは華々しく、ぶれない芯の強さを想起させる。しかしそんな彼女は決して100%自信を持って進んできたわけでもなく、今も迷いもがき続ける女子の1人だ。
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夏子は新聞記者になりたかった。活動家だった父親の影響で物心ついたときから家庭では社会問題が身近にあり、ゆくゆくは報道の仕事に就くことを夢見ていた。そんな夏子の進路を大きく変えたきっかけが、フィールドワークで訪れた瀬戸内海の島、豊島(てしま)だ。
今でこそ「アートの島」と呼ばれる豊島だが、2001年当時は「ごみの島」だった。ちょうど夏子が生まれる前年の1980年から豊島開発という業者によって産業廃棄物が持ち込まれ、大量の有害廃棄物の不法投棄が公然と行われるようになった。のちにわかったところでは、その量なんと約91万トンに上る。こうした事態は住民の生活環境を悪化させるだけでなく、土壌や地下水を有害物質で汚染し健康被害を招いたが、管轄する香川県は対応せず放置。1990年に兵庫県警によって豊島開発が摘発されたあとも、県は自らに責任はないという姿勢をその後7年間も崩さなかった。ようやく国と県が撤去費用を合同で負担することが決まったあとも、県は住民に対する謝罪を拒否。その間撤去工事は進まず、ついに香川県知事が住民に対して謝罪を行ったのは夏子が大学に入学した2000年のことである。
つまり夏子が生まれてから大学生になるまでの間、豊島の住民はずっと産廃に苦しめられてきたということだ。呑気に大学生活を送る神戸から遠くない島で、そんな問題が起こっていたことに夏子は衝撃を受けた。自分に何ができるかはわからなかったけれど、それでも機会がある度に豊島に通った。
しかし島でフィールドワークをする間は問題意識を抱くものの、神戸に戻ればほかの子と同じように大学生活を楽しむ自分がいる。ごみを受け入れてきた島と、ごみを当然のように出す都会での生活。まったく異なる2つの世界を行き来するなかで、自分の問題意識にどう向き合えばよいのか探る日々だった。
そうして訪れた何度目かの豊島で、ある日人生をかけて住民運動をしてきたおじさんに「ここの問題は誰のせいで起こったことやと思ってる?」と尋ねられた。豊島についてすでにしっかり勉強していた夏子が優等生的に「やはり行政ですね」と答えると、おじさんは諭すように「あんたが悪いんやで」と言った。
「これはごみを出してる1人ひとりの責任や。それを民主主義のなかで放置してる。あんたはどういうつもりで関わってるんや?」
ハッとした。それまで夏子はジャーナリズム視点で、誰かと誰かの間で起こっている問題を告発するというスタンスでいたに過ぎない。しかし民主主義のこの国で生きている以上、行政の方針や姿勢は国民の責任でもある。夏子自身が解決にかかわらなくてはという気持ちが芽生えた。
そこから夏子は消費社会の裏側で起こっている問題にのめり込んでいった。フィールドワークにもはまった。現地の話を聞くことは、座学の何倍も面白かった。現場で解決に取り組む人は、実際に自らやることに手応えを感じながら自分の言葉で喋っている。そんな姿は輝いて見えた。夏子のなかで、現場で活動することへの憧れのようなものが膨らんだ。
大学4年生の夏から環境先進国のデンマークに交換留学することが決まった。実は留学が決まったのは大学3年生の冬である。一般的にそのタイミングでまず行うべきは就活だ。けれど当時の夏子はごみ問題にのめり込むがあまり、「大企業=消費社会を生み出すもの=悪」という短絡的な思考に囚われ、民間企業に就職することは「負け」だとすら思っていた。
そもそも夏子にとって、お金を稼ぐことは働くモチベーションにはならない。だからアルバイトも続かなかった。洋服は好きだし、旅行だって行きたい。けれど、夏子にとって欲しいものとは「手の届く範囲で手に入れるもの」でしかなく、「それを買うためにお金を稼ぐ」という発想はなかった。それに神戸の街でおしゃれしてデートするよりも、面白いおじいさんやおばあさんたちが居るコミュニティに入っていくことの方が数倍刺激的だった。
自分がいいなと思うものに対してのめり込む反面、そうじゃないものに対しては頑張れない。子供じみているとも捉えられかねないこの頑固さは、今も夏子の芯にある。
デンマークでの留学中、豊島で出会った人から連絡があった。徳島県上勝町でごみゼロ活動に取り組むNPOの立ち上げメンバーを探しているという。フィールドワークにのめり込み、現場の一員になりたい気持ちが膨らんでいた夏子にとっては願ってもない話である。すぐに格安航空券を押さえ、飛行機を3回乗り継いで一時帰国し、上勝で面接を受けた。今でこそソーシャルビジネスと呼ばれるスタートアップはたくさんあるが、当時はそんな概念が登場する前である(ついでに言うとビデオ通話もまだ普及していない)。だからこそ上勝の話はめったにないチャンスだった。デンマークで出会ったヨーロッパの学生たちがギャップイヤーで好きなことを追求する姿にも背中を押された。
こうしてたまたまやってきた機会が、夏子の志向にぴったりと一致。留学を終えて帰国したわずか5日後、夏子は徳島県上勝町に移住した。
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