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20代で転職して8か月で休職するまで

2019年1月に会社員を辞めてからもう5年以上が経つ。独立のメリットはいろいろと実感するが、なかでも大きいのは体調を考慮しながら働ける点だ。

私はPMS(月経前症候群)と片頭痛という2つの厄介な症状とずっと付き合っている。

PMSは「月経前症候群」の文字どおり、月経(生理)前に出るさまざまな症状だ。私の場合、眠気と頭痛とイライラは定番。これにときどき悲しみや絶望感が加わり、最近では喉のイガイガ、または鼻詰まりや発疹などのアレルギー症状が出る。たまにまぶたもピクピクと痙攣する。脳の働きレベルぐらいは普段の6割程度。これが1か月おきに訪れては、7~10日続く。PMS時期の週末は、ソファに寝そべってNetflixを見ているだけということも多い。

20代の頃はPMSという言葉にもなじみがなかったし、自分の頭痛が片頭痛という病気であることも知らなかった。そして個人の事情よりも会社の都合の方が優先されて当たり前だと、本気で思っていた。

2000年代後半に私が働いていた現場は常に女性の方が多かったけれど、見上げれば上級管理職には男性が圧倒的多数。意思決定層の属性がそうなのだから、現場に女性が多くても組織の価値観や慣例などは男性基準である。そのため女性が多い職場だからといって、PMSを抱えながら働きやすかったわけでは決してない。むしろほかの女性も生理と付き合っているなか、自分1人がPMSだからと月に1週間は生産性を落としていいわけがなかった。いや、自分1人というわけではなかったはずだ。しかし前回書いたとおり「体調管理も仕事のうち」と言われたなかで、自分の持病を口に出す人は滅多にいなかった。

それよりも仕事が山ほどあるなかで生産性が落ちるなどとは言っていられない。1社目では9時出社21時退社が実質の定時。多忙時は早朝出社や深夜残業もした。しかも基本的に夏のオフィスは寒い(節電意識が今よりもずっと希薄だった時代である)。生理のときは本当に辛く、保健室で借りた湯たんぽをお腹に当てながら仕事をしたこともある。

社会人3年目に転職すると、仕事はさらに忙しくなった。配属されたのは創刊を控えた雑誌の編集部である。撮影などで早朝出勤・深夜退勤も頻繁にあったが、皆それを当たり前のようにこなしていた。そんなところで自分1人だけ無理しないなんてできるはずもない。転職直後は「なんでこんなところに来たんだろう」と激しく後悔した。

当時記事広告の編集担当だった私は、あるクライアントに怒られまくっていた。そのうえベテランの外部スタッフたちをうまくまとめることもできず、交際費の口実に使われたり、クレームの入った記事広告へのクレジット掲載を拒否されたりした。撮影中に昼寝をし始めたフォトグラファーもおり、果たしてそれがクリエイティビティのためなのか、それとも単に私が舐められているだけなのか困惑した記憶がある(私が王族だったら同じようにするかと考えてみると、おそらく後者だろう)。

前職では教材編集者だったが、ビジュアルに重きが置かれる雑誌とは関わる人々のタイプがまったく違う。転職先では大手広告出稿主、そしてファッション誌などで活躍するクリエイティブ系の人々とのコミュニケーションに苦手意識ばかり募った。新人に毛の生えたような編集者3年目の私には、そうした人々と対等に渡り合う図太さなどなかったのだ。

もうこの頃は、正直毎日わけがわからなかった。この雑誌に関わった期間は8か月だけなのに、なんだかとても長かったようにも思う。もちろん辛い記憶ばかりではない。市販誌の編集者として初めて奥付に名前が載った号は今も大切に保管してあるし、書店で売られているのを見たときはとても感慨深かった(なにせ1社めは通信教材である)。いろんなブランドの新製品発表会やレセプションパーティに行き、都会的かつキラキラした雰囲気に酔った思い出も懐かしい(なにせ1社めは多摩勤務である)。けれど、基本的には心身ともに無理をしていた。

もともと効率と睡眠重視の私にとって、不規則な生活は心身ともに堪えた。そしてPMSと頭痛はどんどんひどくなっていった。PMSの時期は帰宅して玄関の扉を閉めるなり号泣したこともある。しかし私はどちらかと言うとまだ労働時間が短かった方で、周りには連日のように深夜残業している人も多かった。そして、そうできない、したくもないと考えている自分になぜか罪悪感を覚え、それもまたストレスとしてのしかかってきた。

そんなある日、オフィスのトイレで不正出血に気づいた。不正出血とは生理以外の出血を指す。今はもう何度か経験しているので冷静に「しばらく様子を見て続くなら婦人科に行くか」となるが、当時の私には初めての経験である。ひどく動揺した私は女性の上司に話して早退させてもらい、その足で通勤経路にある婦人科に行き血液検査を受けた。婦人科に行ったのはこのときが初めてだった。

1週間後、検査結果を聞きに再訪した私に、医師は女性ホルモンの値が大きく下がっていると告げた。そして働きすぎの私に脅すようなことを散々言った。もちろん、医師にとっては身体を優先すべきという当たり前の忠告だったのだろう。しかし私からすれば、その内容はあまりにも現実離れしていた。大病を患っているのならともかく、私の些細な体調不良など会社に関係ないではないか。そもそも組織とはそんな場所ではない。適応できない人間は辞めるだけだと、思い込んでいた。

私の場合は不正出血だったが、周りでは生理が止まる、または年に数回しか来ないというのも実はよく聞く話だった。「めんどくさいからそのままにしている」と言った人も1人や2人ではない。はっきり言って異常事態なのに、それがまったく珍しくない世界に私はいた。これは私の勘違いかもしれないが、むしろ皆どこかで「男並みに働いている」ことに程度の差はあれプライドを持っていたようにも思う。とはいえ仕事が女性ホルモンに影響したというショックは大きく、ダメージの大きさを突き付けられたようだった。

ただこのとき処方された加味逍遙散という漢方薬を飲み始めたところ、翌月にはPMSが一切なく、何の前触れもなく生理がきて驚いた。生理前の辛い症状は薬で何とかなるのだと、私は不正出血をきっかけに初めて知ったのである。本来ならば健康な状態で知っておきたかったことだが、そうした情報はまったく一般的ではなく、軽減が可能という事実を知らなかった私には調べる発想すらなかったのだ(ちなみに当時はスマホが普及する前で、今ほど何でも気軽に検索する時代ではない)。

しかし処方された1か月分を飲み切っても、またその婦人科に行くことはなかった。お説教を聞きたくなかったからだ。その代わり、ドラッグストアで市販のものを買って飲むことにした。ただ処方時よりも高かったので、量を適当に減らして飲んだ。

こうして女性ホルモン周りの問題に手を打ちまたがんばろうと思った矢先、異動の辞令が出た。編集ではなく企画グループに配属されるという。それを受けた私はショックで泣き、部長を困らせた。「企画の仕事がしたかったんじゃないの?」と。

そう、転職したのは企画の仕事がしたいからだった。実は新卒の就活時からずっと希望していたのはマーケティングや商品企画の仕事だ。就職氷河期末期の2005年に就職してたまたま編集者になったが、マーケティング系の仕事を諦めてはいなかった。その後景気が少し上向き「第二新卒」という言葉が登場した頃、私は編集を取っかかりに企画の仕事ができる会社への転職に成功したのである。

それをしっかり覚えていた会社側は、入社後半年ちょっとで私にチャンスを与えてくれた。にもかかわらず、私は敗北感でいっぱいだった。今思えば、燃え尽きに近かったのだと思う。

クライアントとのトラブルを抱え、不規則な生活に耐え、女性ホルモンまで犠牲にしてがんばったのに異動ですかと泣く私に、部長は戸惑った様子だった(このときは相手が男性でもホルモンの話をした)。とはいえ異動を取り消しにできるわけもなく、私は担当記事を校了した11月頭から新チームでまた一から仕事を覚える羽目になった。そしてその直後から頭痛が一層ひどくなり、結局年明けまで会社を休んだのだった。(つづく)

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