第5章 武家社会の成長
2.幕府の衰退と庶民の台頭
惣村の形成と土一揆
鎌倉時代の後期、近畿地方やその周辺部に造られた新しい形の村は、南北朝の動乱の中で次第にはっきりその姿を表し始め、各地方に広がっていった。このような、荘園制の内部から農民たちが自らの手で創り出した、自立的・自治的な村を惣とか惣村という❶。
惣村は、加地子という地代をとる地主になりつつあった名主を中心に新しく成長してきた小農民も構成員とし、村の神社の祭礼❷や農業の共同作業、戦乱に対する自衛などを通して、次第に村民の結合を強くして いった。
惣村は寄合という村民の会議の決定に従って、おとな(長・乙名)・沙汰人などと呼ばれる村の指導者によって運営された。また、惣百姓と呼ばれた村民は自らが守るべき規約である惣掟(村法)を定めたり、村内の秩序を自分たちで維持するために村民が警察権を行使(地下検断)することもあった。惣村は、農業生産に必要な山や野原などの共同利用地(入会地)を確保するとともに、灌漑用水の管理も行うようになった。また、領主に納める年貢など惣村がひとまとめにして請け負う地下請(村請・百姓請)も次第に広がっていった。
更に、このような強い連帯意識で結ばれた惣村の農民は、不法を働く荘官の免職、水害や日照りの被害による年貢の減免を求めて一揆を結び、荘園領主のもとに大挙しておしかけたり(強訴)、要求が認められないときは、全員が耕作を放棄し他領や山林に逃げこんだり(逃散)する実力行使をしばしば行った。しかも、これらの惣村はそれぞれの領主をことにする荘園・公領の枠をこえて、広く周辺の村々と連合し、また村の有力者の中には、守護大名などと主従関係を結んで武士化するものが多く現れたため❸、荘園領主や地頭などの領主支配は次第に困難になっていった。
この惣村を母体とした農民勢力が、大きな力となって中央の政界に衝撃をあたえたのが、1428(正長元)年の正長の徳政一揆(土一揆)である。この年の8月、まず近江の運送業者の馬借が徳政を要求して蜂起し、ついで京都近郊の惣村の結合をもとにした土一揆が徳政を要求し、京都の酒屋・土倉などを襲って、質物や売買・貸借証文を奪った。このころ、農村には土倉などの高利貸資本が深く浸透していたため、この徳政一揆はたちまち近畿地方やその周辺に広がり、各地で実力による債務破 ・売却地の取戻しなどの徳政実施行動(私徳政)が展開された❹。
ついで1441 (嘉吉元)年、数万の土一揆が京都を占領し「代始の徳政」❺を要求したため(嘉吉の徳政一揆)、ついに幕府は徳政令を発布した。
この後も土一揆はしばしば徳政のスローガンをかかげて各地に蜂起 し、私徳政を行うとともに徳政令の発布を要求し、幕府もを徳政令乱発するようになった❻。
幕府の動揺と 応仁の乱
義満のあとを継いだ将軍義持時代の幕府政治は、将軍と有力大名の勢力均衡が保たれ、比較的安定していた。しかし、6代将軍に就任した義教は、幕府における将軍権力の強化を狙って、将軍に服従しないものを全て力で抑えようとした。そのため、幕府と長らく対抗関係にあった鎌倉府との間が決裂し❼、1438 (永享10)年義教は関東へ討伐軍を送り、翌年鎌倉公方の
足利持氏を討ち滅ぼした(永享の乱)❽。
更に、義教は専制政治を強行したため政治不安が高まり、1441(嘉吉元)年、処罰をおそれた有力守護赤松満祐は義教を殺害した。やがて赤松氏は幕府軍に討伐されたが(嘉吉の乱)、これ以降、将軍の権威は大きく揺らいで行った。
将軍権力の弱体化にともなって幕府政治の実権が有力大名に移っていく中で、約1世紀におよぶ戦国時代の口火を切った応仁の乱がおこった。
まず幕府の管領家畠山氏と斯波氏の家督相続をめぐる争いが起こり、ついで8代将軍義政の弟義視と義政の妻日野富子の推す子義尚との将軍家の家督相続争いがおこった❾。
そして当時、幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元と山名宗全(宗全)が、それぞれ義視と義政・義尚を支援して対立は激化し、1467(応仁元)年、ついに応仁の乱が始まった。
守護大名はそれぞれ両軍に分かれ、細川方(東軍)には24ヵ国16万人、山名方(西軍)には20カ国11万人といわれる大軍が加わった①⓪。
主戦場となっ た京都の町は戦火に焼かれ荒廃するとともに、争乱は地方へ広がった。
応仁の乱は、1477(文明9)年、戦いにつかれた両軍の間に和議が結ばれて一応終止符が打たれたが、この乱により将軍の権威は失われ、争乱はその後も地域的争いとして続けられ全国に広がっていった。そしてこの 争乱の中で、幕府体制・荘園制が破壊されていった。応仁の乱で在京して戦った守護大名の領国では、在国して戦った守護代や有力国人が力をのばし、領国の実権は次第に彼らに移っていった。
また地方の国人たちは、この混乱の中で自分たちの権益を守ろうとして、しばしば国人一揆を結成した。1485(文明17)年、南山城地方で両派にわかれて争っていた畠山氏の軍を国外に退去させた山城の国一揆は、山城の住民の支持を得て、8年間に渡り一揆の自治的支配を実現した。このように、下のものの力が上のものの勢力をしのいでいく現象がこの時代の特徴であり、これを下剋上といった。
1488(長享2)年に起こった加賀一向一揆もその一つの現れであった。この一揆は、本願寺蓮如(兼寿)の布教によって近畿・東海・北陸に広まった浄土真宗本願寺派の勢力を背景とし、加賀の門徒が国人と手を結び、守護富樫政親を倒したもので、以後、一揆が実質的に支配する本願寺領国が1世紀にわたって続いた。
農業の発達
室町時代の産業は、民衆の生活と結びついて発展した。この時期の農業の特色は、土地の生産性を向上させる集約化・多角化が進められたことにあった。灌漑や排水施設の整備・改善によ り二毛作は各地に広まり、畿内では三毛作も行われた。また、水稲の品種 改良も進み、早稲・中稲・晩稲の作付けも普及し、各地の自然条件に応じた稲が栽培されるようなった。鍬・鋤・鎌などの鉄製農具や牛馬を利用した農耕は鎌倉期よりも更に普及し、肥料も刈敷・草木灰などとともに下肥が広く使われるようになって地味の向上、収穫の安定化が進んだ。また手工業の原料として、苧・ 桑・楮・漆・藍・茶などの栽培も盛んになり、農村加工業の発達により、これらが商品として流通するようになった。このような生産性の向上は農民を豊かにし、物資の需要を高め、商品の生産・流通を盛んにした。
商工業の発達
この時代、手工業者の同業組合である座の数は飛躍的に増加し、多種にわたる生産部門で手工業者の座が登場した。これらの座は、本所である公家・寺社に保護され、本所に奉仕するというこれまでの従属的関係を変えて、次第に保護を受ける代わりに営業税を納める自立的傾向を強め、注文生産や市場目当ての商品生産も行うようになった。
また、これらの手工業の座は、京都・奈良を中心とする近畿地方だけではなく、全国的に結成されるようになり、その地方の特色をいかして特産品を生産するようになった①①。
更に、京都・奈良などの都市の周辺部では、 農民が自分の生産物を加工して製品をつくる農村の座もうまれ、農村にも次第に商品経済が浸透していった。
また、製塩のための塩田も、ほとんど人工を加えない自然浜(揚浜)から潮の干満を利用して、堤で囲った砂浜に海水を導入する古式入浜もつくられるようになった。
農業や手工業の発達により、地方の市場①②もその数と市日の回数をましていき、月に3回ひらく三度の市から、応仁の乱後は6回ひらく六斎市が一般化した。
また連雀商人や振売とよばれた行商人の数も増加していった。これらの行商人の中では、京都の大原女・桂女をはじめ女性の活躍が目立っ た①③。
都市では見世棚(店棚)を構えた常設の小売店も次第に増えるとともに、京都の米場・淀の魚市などのように、特定の商品だけを扱う市場もうまれた。
商人の座も手工業者の座と同じように、その種類や数か者しく増えた。 座の構成員である座衆は、公家や寺社などに座役として営業税をおさめ、 簡銭の免除や一定地域内の市場などで独占的販売権を認められ、広い範囲に渡り活躍した①④。
しかし15世紀以降になると、次第に座に加わらない新興商人が増え、両者の間に売買の権利をめぐる対立が起こるようになった。
商品経済が盛んになると、貨幣の流通が著しく増え、農民も年貢、特に公事・夫役を貨幣で納入することが多くなった。また遠隔地取引の拡大とともに為替(割符)の利用も盛んに行われた。貨幣はおもに永楽通宝など中国からの輸入銭が使用されたが、需要の増大とともに粗悪な私鋳銭も流通するようになり、取引にあたって悪銭を嫌い、良質の貨幣を選ぶ撰銭が行われて、円滑な流通が阻害された。そのため幕府・戦国大名などは悪銭と良銭の交換比率を決めたり、一定の悪銭の流通を禁止する撰銭令をしばしば発布した。
貨幣経済の発達は金融業者の活動を促した。当時、酒屋などの有力な商工業者は、土倉と呼ばれた高利貸業を兼ねるものが多く①⑤、幕府は、 京都のこれらの富裕な酒屋・土倉を保護・統制するとともに、営業税を徴 収した。
地方産業が盛んになると遠隔地取引も活発になり、海・川・陸の交通路が発達し①⑥、廻船の往来も頻繁になり①⑦、交通の要地には問屋が置かれ、多くの地方都市が繁栄した。
また多量の物資が運ばれる京都への輸送路では、馬借・車借とよばれる運送業者が活躍した。