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あの日の雨、今日の虹。』悲しみを乗り越え、愛を再び見つけるまで 〜第4章〜

四  ひび割れた日常──嵐の予兆

ありさとケイゴの関係は、穏やかな春の陽だまりのような日々を重ねていた。

月に一度、少し遠出をするのが二人の間の暗黙の約束になっていた。

日帰り旅行で近郊の観光地を訪れたり、少し足を伸ばして温泉に出かけたり。ケイゴはいつもありさと子供たちを気遣い、楽しい時間を提供してくれた。

ありさも、ケイゴと過ごす時間が、今の自分にとってかけがえのないものになっていると感じ始めていた。失われた時間を取り戻すように、心から笑い、子供のように無邪気に過ごすことができた。
しかし、心の奥底には、黒い影のように、健太への罪悪感が常に潜んでおり、時折彼女を不安にさせた。
それは、晴れた空に見え隠れする暗雲のように、いつ降り出すか分からない不安だった。

ある日、ありさがケイゴと子供たちとの日帰り旅行から帰宅する途中、夕食の材料を買うために駅前の商店街に立ち寄った。

子供たちはアイスクリームを買ってもらい、ご機嫌で歩いている。

ありさは、スーパーの袋を手に持ちながら、ふと視線を上げた。

夕暮れの商店街、街灯が灯り始めた頃、通りを挟んだ向かいのカフェの大きな窓際に、見覚えのある二つの人影を見つけた。
健太と、以前、会社の忘年会で遠くから見かけた、赤いワンピースを着た女性だった。心臓が跳ね上がり、息を呑んだ。足が止まり、持っていた買い物袋がぐらついた。

子供たちが「ママ、どうしたの?」と不思議そうにありさを見上げる。

ありさは咄嗟に「なんでもないよ」と微笑み返したが、目はカフェの二人から離せなかった。

健太は、時折身振り手振りを交えながら何かを話しており、女性は少し俯き加減に聞いている。時折、女性の肩が小さく震えているように見えた。楽しそうというよりは、どこか切迫した、真剣な雰囲気だった。ありさの胸に、ざわめきが広がった。

なぜ、健太が、あの女性と……? 

この胸の痛みは何?

ありさは、子供たちの手を引き、足早にその場を離れた。背後でカフェの音楽がかすかに聞こえる。スーパーの袋が手に食い込む。
早くここから離れたかった。
平静を装ってはいるものの、心臓は激しく脈打ち、手足は冷たくなっていた。
子供たちの「ねえ、ママ」という声も上の空で、早く家に帰りたかった。

家に着き、子供たちを寝かしつけ、夕食の準備をする。しかし、頭の中はカフェの光景でいっぱいだった。落ち着かない気持ちで食器を並べ、何度も窓の外を見てしまう。早く健太に会って、問い詰めたい。でも、ケイゴのことがバレてはいけない。様々な感情が渦巻き、混乱していた。

しばらくして、鍵の開く音が聞こえ、健太が帰ってきた。

「ただいま」

健太は玄関で靴を脱ぎながら言った。リビングにありさの姿を見つけると、少し驚いたように目を丸くした。

「ありさ、もう起きてたのか?遅くまで」

ありさは振り返らずに言った。

「待ってたの」

「そうか。今日は少し仕事が長引いて……」

健太はそう言いながら、ありさの横に座った。
その様子はいつもと変わらないように見えるが、どこか落ち着かない様子だった。

ありさは、平静を装いながらも、健太の顔をじっと見た。
「今日は遅かったわね」
「ああ、少しね。月末で色々立て込んでいて……」
健太はそう言いながら、視線を逸らした。

ありさは、何気ない口調で言った。
「そう。お疲れ様。そういえば、駅前のカフェ、最近よく人が入ってるわね」
健太は少し緊張したように肩を揺らした。「ああ、まあ……そうだね」と曖昧に答えた。

ありさは、さらに何気ない様子で尋ねた。「誰かと一緒だったりした?」心臓がドキドキと高鳴る。この質問で、全てが明らかになるかもしれない。でも、聞かなければいけない。

健太は一瞬言葉に詰まり、目を泳がせた。
「いや、別に……」とぎこちなく答えた。
ありさは、健太の挙動を見て、確信に近いものを感じた。しかし、ケイゴとの関係を知られたくないという気持ちが強く、それ以上追及することを躊躇した。
「そう……」とだけ言い、ありさは視線を窓の外に向けた。

夜空には、月がぼんやりと輝いている。
遠くの街の灯りが、まるで自分の心のように、ぼやけて見えた。

二人の間に、重い沈黙が流れた。

ありさは、心の中で様々な感情が渦巻いているのを感じていた。健太への疑念、裏切られたかもしれないという不安、そして何よりも、ケイゴとの関係がバレてしまうかもしれないという恐怖。それらが複雑に絡み合い、ありさの心を締め付けていた。
ありさは、深いため息をつき、立ち上がった。
「お風呂でも入ってくるわ」
そう言って、ありさはリビングを出た。

お風呂に入りながらも、ありさの頭の中は混乱していた。カフェの光景、健太の曖昧な態度、そしてケイゴのこと。全てがごちゃ混ぜになり、どうすればいいのか分からなかった。

湯船の中で目を閉じると、涙が溢れてきた。この苦しみを、誰にも打ち明けることができない。ありさは、一人静かに泣いた。
湯から上がり、寝室に戻ったありさは、ベッドに腰掛け、窓の外の夜空を見上げた。月は雲に覆われ、あたりは薄暗い。自分の心の中も、この夜空のように、暗く、先の見えない状態だった。

健太のあの態度は、やはり何かを隠しているのだろう。
赤いワンピースの女性……。なぜ、あの時、あんな場所に二人でいたのだろう。

問い詰めるべきか、それともこのままやり過ごすべきか。ケイゴのことを考えると、事を荒立てるわけにはいかない。
しかし、このまま何もなかったように振る舞うこともできない。この気持ちを抱えたまま、これからどうやって健太と向き合っていけばいいのだろう。
ありさは、深い後悔の念に襲われた。
ケイゴと関係を持ってしまったこと。それが、今、自分をこんなにも苦しめている。

もし、あの時、ケイゴとの関係を始めなければ、こんな思いをすることもなかったのに……。

様々な思いが交錯する中、ありさの中で一つの感情が大きくなっていた。それは、この状況から目を背けてはいけない、ということ。問い詰めない、と決めたけれど、何も変わらない日常を続けることは、自分自身を裏切ることになる。何かを変えなければ、この苦しみから逃れることはできない。
明日、どうするかはまだわからない。もしかしたら、ケイゴに会って全てを話してしまうかもしれない。

あるいは、健太に改めて話を聞く機会を設けるかもしれない。もしかしたら、何もせずにやり過ごしてしまうかもしれない。それでも、何かを変えなければならないという思いだけは、確かなものとしてありさの胸に残っていた。暗い夜空を見上げながら、ありさは静かにそう思った。 

つづく



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