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【短編】メアリーの椅子【全4話】


 メアリー・レフラーは五時半ぴったりに目を覚ました。
 四十分までに着替えと洗顔を済ませた後は、家じゅうの窓を開けて、朝刊を確認する。そこで六時。今日も心地良いほどに時間ぴったりだ。洗濯機のスイッチを入れて、朝食の準備を始める。朝食はいつも同じ。目玉焼きにベーコンを焼いて、食パンをトースターに入れる。そしてコーヒーだ。コーヒーを淹れる前に、六時二十分ぴったりには夫のジョニー・レフラーを起こす。そして夫がのそのそと準備を整えている間に、ようやくコーヒーの準備を始める。これが彼女のモーニング・ルーティーンだ。

「そうだ。少し寄りたいところがあるから遅くなるかもしれない」
 夫がそんなことを言い出さなければ、もっと善かったはずだ。
「……そう。気をつけて」
 メアリーは夫がどうすれば時間通りに動いてくれるのか、そしていまの仕事を辞めてくれるのかに思いを馳せていた。バタバタと朝の準備をする彼を気にせず、モーニング・ルーティンの続きにかかる。
「行ってきます!」
 仕事に行く夫を送り出すと、家のなかは急に静まり返った。
 メアリー・レフラーは、この二十余年の一度たりとて自分が幸せだと思ったことはなかった。
 なにしろ彼女は自分を幸せか不幸か考えたこともなかったからだ。目の前にあることをこなすのが精一杯で、自分が幸せかどうか考えたことさえない。
 ハーバントの小さな田舎にある二階建ての切妻屋根の家に、彼女は夫のジョニー・レフラーと二人暮らし。子供はまだいない。ジョニーはまだそのつもりは無いようだったが、彼女は周囲と歩調が合っていないような気がしてむずがゆかった。彼女はいつもそうだった。
 メアリーは熱心なキリスト教徒であった母から、多くを教えられた。
 他より出ることも、遅れることもなく。規律正しくあることを。
 変化を好まず、不変を愛し、周囲と歩調を合わせることを至上としていた。
 そうすることで、自分を共同体の一員として認識できた。ルール通りに動くことを信念とし、美しいものであると信じていた。適材適所だの試行錯誤だの緩やかにでも変化を強制する都会の人々には馴染めない。同じルーティンで同じ生活をし、同じ服を着て、同じものを食べる。誰からもはみ出さない。統一感と規律のある生活が楽だった。だから、古い人々ばかりのこの土地を気に入っていて、ジョニーと結婚してからも変わらずここに住むのだと思っていた。だから余計に、ジョニーが町の役所へ働きに行くことに歯がゆい思いをしていた。ジョニーはメアリーの言うとおりにこの土地に住むことを許してくれたが、一方で仕事先としては前の仕事を辞めるつもりはなかったらしい。メアリーとしては実家の家業を継いで、この村で住むものだと思い込んでいた。

 だからこそこの村に居ることが心地良かった。都会は嫌いだ。男も女も自己主張が激しい。だからこそこの村に留まっているのに、ジョニーときたら。とくに、夫が町で働いているのだから生活に余裕があると思われるのが一番の苦痛だった。他の人々と同様ではないどころか、むしろ上等であると思われることのなんと歯がゆいことか。そんなものは上等でもなんでもない。メアリー自身は規律に従い、威厳ある、この村の女性として相応しい善き妻でいたかった。それなのに、肝心の夫ときたら、それを平気でぶち壊そうとするのだ。町で働き、自由を好む。裏切られた気分だったが、いつかジョニーが「改心」することを望んでいた。

 それに、いまは他にもメアリーの心を揺るがせているものがもうひとつあった。
 それが食卓にある椅子のことだ。四つある椅子はテーブルとセットのもので、茶色い革張りで四角い背もたれがある。それが、よりによってメアリーが座る椅子が壊れかかっていた。ただでさえ古い椅子は、背もたれのところが外れかかっているのだった。これはメアリーにとって頭の痛いことだった。それだけならまだいい。あろうことか足の方も一本ぐらついていて、何度ジョニーが修理してもすぐにぐらぐらとしてしまった。
 たかだか椅子と思われるかもしれないが、ここにある椅子は四つでひとつなのだ。どれひとつとして欠けてはいけないような気がしていた。ひとつ取り替えるなら、テーブルごと取り替えないと気分が落ち着かなかった。いずれテーブルごと買い換える話をジョニーとしようと思っていた。

「メアリー!」
 その日、ジョニーは「ただいま」の前に彼女の名を呼んだ。
 どことなく浮ついた声だった。いやな予感がした。
「お帰りなさい――どうしたの?」
 いやであっても聞かねばならなかった。今度は何を、しでかしたのか。
「町の古物商でいい椅子を買ってきたんだ」
「え?」
「きみの椅子が壊れかけていただろう?」
 けれどもメアリーは、椅子を見たとたんに嫌悪感のようなものを覚えた。
 食卓の椅子とはまったく違うデザイン。
 いや、椅子を単体として見ればずいぶんと善い作りだった。古物商というわりにはしっかりした作りだったし、悪くない。それなりに納得しただろう。木製の足に、座るところは緑色の革張りで、シンプルだが良い椅子だ。食卓の椅子とよく似ているが、並べるとまったく違う。椅子の背もたれは四角でなければならないのに、これは丸みがかっている。食卓の椅子としては申し分ないのだろうが、よりによってメアリーが座ることになるのは――抵抗があった。
 他と違っている――それこそがメアリーにとっての最大の違和感になった。
 この異質さがメアリーの違和感を刺激した。なにより座り心地が悪い。いや、座り心地に関してはむしろ良かった。椅子としては良い椅子なのだ。だが、この椅子がこの家のものではないと感じたし、そこに座ると自分が異物になった気さえする。
「どうだ、いい椅子だろう?」
「……え、ええ、そうね」
 夫を立てるのがいい女性であり、いい妻だ。
 どれほど夫が頓珍漢なことをしでかしたとしても。


 メアリーは翌日、五時半きっちりに目を覚ました。
 いつも通り四十分までに着替えと洗顔を済ませた、家じゅうの窓を開け、朝刊を確認する。そこで六時。心地良いほどに時間ぴったり。洗濯機のスイッチを入れて、朝食の準備を始める。目玉焼きにベーコンを焼き、食パンをトースターに入れる。コーヒーを淹れる前に、六時二十分ぴったりにジョニーを起こす。そして夫がのそのそと準備を整えている間に、ようやくコーヒーの準備を始める。
 すべてのモーニング・ルーティンの半分を終えようとしていたとき、彼女は息を呑んだ。
 緑色の革張りが視界に入ると、彼女はすべての動きを止めてしまった。まるで異質なものがある。強烈な違和感と忌避感が彼女を支配して、持っていたトレイを取り落としてしまうところだった。
「どうした?」
 夫がのそのそとリビングにやってきて、ようやくハッとする。
 時間が遅れてしまう。
「ご、ごめんなさい。いますぐ準備に取りかかるわ」
「疲れてるんなら僕がやるよ」
「いいえ、あなたは座っていて。時間に遅れちゃう」
「大丈夫だよ、少しくらい」
「だめよ!」
 彼女が狼狽し、動きをとめていたのは、実際にはほんの二、三分くらいのことだった。
 だがたったそれだけであっても、彼女にとっては忌むべきことだった。普段通りの動きが出来ないことに、怒りが混じる。夫のせいではないのに――いや、夫のせいなのだろうか。
 メアリーは自分の座るはずだった椅子を見た。緑色の異質な椅子。おずおずと座ってみる。なんだか生温い気がした。いましがた誰かが座っていたような生ぬるさがあった。だが、夫は自分の椅子に座って朝食を食べている。それに、夫はいつも自分の椅子に座って食べているから、この椅子に座るとも思えない。どうにも深く座る気になれなかった。少しお尻を移動させて、前のほうにだけ腰掛ける。なんだか、だれかの上に座っているようで落ち着かない。夫は気付いていないようだった。
「……前の椅子はどうしたの?」
「もう車に積んだよ」
「積んだ?」
「粗大ゴミに持っていこうと思ってね。あの大きさだったら僕の車にも入ったよ」
「……そ、そう」
 いまにも、「持って行かないで!」と叫んでしまうところだった。
 けれどもそれは出来なかった。

 夫を見送ったあとはずいぶんと静かになった。
 彼女はこの緑色の革張りの椅子に立ち向かわねばならなかった。まだやることがある。朝のルーティンは終わっていない。時間だけがどんどんと過ぎていく。彼女は黙って椅子を見つめた。ようやく息を整えた頃には七分が経過していた。これ以上立ち止まっているわけにはいかない。朝のルーティンが終わったら、また別のルーティンが始まるのだ。それが彼女の日常だ。一刻も早く。彼女の日常を取り戻さねばならなかった。
 洗濯物を干し終えると、いつもの時間よりも二十分も遅れていた。いつもは九時半ぴったりに花に水をやっているのに。あの椅子のせいだ。洗濯物のカゴを持って部屋の中に戻る。
 明るい日差しの入ってくる部屋のなかでハッと視線を感じると、あの椅子がメアリーを見ているような気さえする。振り返ると、その先に椅子が周りの風景から浮いたようにそこにあった。あまりに長い時間、向き合ってしまった。玄関先からのチャイムの音で我に返ると、彼女は持っていたカゴを床に置いた。
 ドアを開けると、その先には老婆がひとり。
「こんにちは、メアリー」
 人好きのする顔で、手編みのカーディガンを羽織った老女が笑った。
「こ、こんにちはマダム・ケイト」
 背筋が伸びた。なにしろ彼女は典型的な――この村の女性だ。
「どうぞ、あがってください」
「すぐ帰るから大丈夫よ」
「いえ、お茶ぐらい出しますよ」
 そうは言ったが、促されるようにケイトは中へと足を踏み込んだ。
 持っていたバスケットを、重そうにテーブルの上に運ぶ。
「今年はトマトがよくとれてね。余っちゃうから、トマトソースにしたの。そしたらソースまでたくさんできちゃって。お裾分けに持ってきたのよ」
「そうでしたか、ありがとうございます。いまちょっと手持ちがなくて……何かお返しできるものがあればいいんですが」
「あら、いいのよ。あなたのところはジョニーが畑をもうやめちゃったでしょう」
 メアリーはぎくりとした。
「そ、それは……」
「もったいないことをしたわね。いい畑だったのに。でもきっと私の旦那よりマシだわ。あの人ったら、作った野菜をすぐだめにしちゃったんだもの。もちろん、生きてるときの話だけどね。」
 バスケットの布を開け、中から大きな瓶をいくつか出してくる。ケイトの言葉はどこか遠くに聞こえていた。まるで責められているように感じて、心臓がばくばくと跳ねる。棚からは何も見つからない。このあいだ貰ったじゃがいもがあったはずだ。あれにしよう。メアリーは後ろを振り返った。
「あら、椅子を変えたのね」
 何気ないケイトの言葉に、引きつりそうなほどの緊張が走った。
「あ、それは……」
「ひとつだけずいぶん違うのね。だれの椅子?」
「違うんです、椅子が壊れてしまって……」
 いったい自分がなんの言い訳をしているのかわからない。
「へえ、そう」
 彼女が自分に対してどう思っているのか、メアリーはそれ以上聴けなかった。
 しっかりしていない女だと思われただろうか。
 異質な女だと思われただろうか。
 それとも――。
 ケイトはおもむろに緑色の椅子に手を伸ばした。面白そうに軽く座ってみせる。
「ふうん。座り心地は良いわね。ちょっと冷たい気がするけど」
 それからのことは、メアリーは覚えていなかった。じゃがいもを手渡すと、ケイトと何か話した気はする。だけどなにを話したのか、さっぱり覚えていない。頭が空っぽのまま、メアリーは黙々と次のことをし始めた。夕方には、何も知らないジョニーが機嫌良く帰ってきた。緑の椅子はそのままだった。


 翌日になっても、メアリーはどこか憂鬱なままだった。
 あまり眠ることもできなかったが、なんとか朝のモーニングルーティンだけはこなした。
 ――睡眠はとれてないけど、昨日よりはずいぶんとマシね。
 今日はちょうどパンが切れる日だ。買い出しにも行かねばならない。店はこのあたりで一軒だけで、そう離れてはいないが少し歩かないといけない。日常は守らねばならなかった。
 外へ出てしばらくすると、ある家の前で人だかりが出来ているのに気付いた。ケイトの家の前だ。今日は集会もないのに、奇妙だ。
「どうかされたんですか?」
 メアリーはおずおずと人だかりの一番後ろにいた女に訊ねた。
「メアリー、ごきげんよう。それがね、ケイトさん、家の中で倒れてたんですって」
「ええっ?」
「さっき荷物を届けに来た人が発見したらしくて……、どうも亡くなってるみたいなのよ。お年だったものねえ」
「それは……お気の毒に」メアリーはしどろもどろになる。「彼女、昨日うちに来たのよ。そのときはまだ元気で……」
 答えてくれた彼女が、あっ、と声をあげた。人々の隙間から、家の中から担架に乗せて老女が運ばれてくるのが見えた。老女の顔がこっちを見ている。はらりとめくれた隙間から見たケイトは、メアリーを見ている気がした。なにしろその表情は驚愕と恐怖に見開かれていたのだから。
 ケイトは孤独死だった。
 警察が来ていろいろと調べていたようで、小さな村は少しだけ浮かれていた。人口の減ってきたこの村で、孤独死なんてそれほど珍しいことじゃない。警察がやって来て簡単な調査をすることも、それほど噂になるようなことでもなかった。けれど今回は違った。あのケイトの表情。メアリー以外の人々もあの表情を見たのだろう。まるで何かに怯えたようではないか。だからこそ、村じゅうで浮き足だったのだ。だが結局、警察は何も言ってくれなかった。たぶん病死だろうという事になった。
 ジョニーはメアリーが不安な顔をしているのを見て、何かを勘違いしたらしい。
「そう落ち込むことはないよ。誰にだって平等に死は訪れる。それがたまたま、きみが会った次の日に訪れただけさ」
 そう言って慰めたが、メアリーはそれどころではなかった。

 不吉だった。
 あの椅子に座ってからケイトは死んだのだ。ジョニーの言う通り、本当は偶然だったのだろう。
 一刻も早く、ごく普通の生活に戻るべきだ。
 そのためにはあの椅子の存在はあってはならなかった。しかし、それをどうジョニーに説明しよう。それとも、ジョニーに仕事を辞めてもらうところから始めるべきか。
 一週間が経っても、メアリーはあの椅子に慣れなかった。座るたびに何か生温いような気がした。
 その日の朝、夫を送り出してから再びチャイムが鳴った。今度は誰だろうか。はい、と声をあげて玄関へと向かう。ドアを開けると、見覚えのある人物が立っていた。
「お義母さん……?」
 ジョニーの母である人物がその場で笑っていた。
「久しぶり! さあさあ、中に入れてちょうだい!」
 彼女は笑いながら中に入ってきた。ぐらりと世界が歪んだ気がした。
 これほどまでに心が引きちぎられそうなのに、また厄介な人間に捕まってしまった。
「ジョニーがね、あなたが気落ちしてるみたいだから行って見てやってくれないかって」
「い、いえ。私――そんなことは」
「いいのよ、疲れているときは頼っても!」
 メアリーにとって、夫の母――義母は苦手な人間だった。
 彼女もまた夫と同じだ。彼女は自分の夫、つまり義父が死ぬと同時に畑を畳んでしまった。自分の子供も興味が無いと知るやいなや、すぐさま売りに出した。そして、「こんなお婆ちゃんがいたら迷惑でしょ」と言って、さっさと町の方へ引っ越ししてしまった。そこの方が医者が近いから、とかなんとか言って。メアリーは呆気にとられていた。ならば自分はなんのためにこの家に来たのかわからない。目上の人間がこうもあっさりといなくなることに閉口した。責任はどうなるのだ。
「メアリー、ちゃんと食べてる?」
「え、ええ。はい」
 無責任な女。
 それが義母に対するイメージだ。
 家を放棄して勝手に村から出ていった女。自由などというまがい物に目がくらんだ女。
「家事はもう終わったの?」
 まるでいまからこの家を掌握するような勢いだ。
「だ、大丈夫です」
「あらそう?」
 そう言って彼女は冷蔵庫を開けた。ふうん、と何かを確かめていく。やめて、と言いたかった。私の世界にずかずかと入り込んでこないで。
 義母が他の貯蔵庫を見に行こうとしたので、メアリーは慌てて声をかけた。
「あ、あの! お義母さんはどうしてここに?」
「あら、ジョニーが呼んだって言わなかった? あなたが疲れてるみたいだから手伝ってやってくれって。わたしも最初は断ったんだけどね、あなたが解決すべき問題よって。だけど家に一人じゃ不安だからって。年寄りをこき使うもんじゃないわよ」
 義母はまだ何か言っていた。
「ちょっと野菜が減ってきてるわね。そういえば、三つ隣のアンさんは元気?」
 彼女がそう尋ねながら棚を開けていくので、メアリーは更に追わなければならなかった。
「げ、元気です」
「そう、それなら良かった。トマトソースがやたらとあるけどどうしたの?」
「それは、この間亡くなったケイトさんに貰った……」
 答えている間に義母が別のところへと足を伸ばす。そのたびにメアリーは彼女を追っていった。一通り家の中を確認し終えると、彼女はにっこりと笑った。
「でも思ったより元気そうね。良かった」
「はあ……」
「あなたも町に来る気はない?」
「ええと」
 答えに窮している間にも話題はどんどんと移り変わっていく。どうにかしなければ。
「あ、あの、コーヒーを淹れますね」
 メアリーはそう言ってキッチンへと逃げ込んだ。
「いいわね」
 義母はそう言ってようやくダイニングの椅子に手をかけた。
「そういえば、椅子を変えたの?」
 その声にハッとして、振り返る。
 義母は食卓椅子をじろじろと見ていた。
 義理の父母が住んでいたときから変わっていないテーブルと椅子。そのひとつだけが変わってしまった椅子。
「ひとつだけ違う椅子なんだもの」
「壊れてしまったので……」
「そういえば、最後に見たときにちょっとがたついてた椅子があったわね。あれだったかしら」
 ひとつだけ違うのが珍しいのか、椅子を引き出す。
「座ってみますか?」
 言ってから自分で驚いた。
 あれだけ自分でも嫌っている椅子に、義母を座らせるなんて、そんな――。
「そうねえ」
 義母は何も思わなかったのか、そのまま座り込んだ。
「でも、ずいぶんと冷たい椅子ね」
 メアリーの記憶はそこで途切れた。


 翌日になって、メアリーは普段と同じモーニングルーティンをこなしながら、何かが起きるのを待った。きっと何かが起きる予感があった。それが具体的にどう、とは言えない。でもきっと連絡があるなら夫からだろうと思っていた。
 メアリーは昼からのルーティンを早めに切り上げると、コーヒーを淹れながら連絡が来るのを待った。待っているうちに夕方になった。赤い光が家の中を照らし出す。そろそろ夕食の準備を、と思い立ったとき、電話が鳴った。すぐさま電話をとった。相手は予想通りだった。
「メアリーか。大変なことになった」
「どうしたの?」
「母さんが倒れて……、……死んだらしい」
 メアリーはどくんと心臓が跳ね上がるのを抑えきれなかった。

 あの椅子に座ったものは死ぬのだろうか。
 いや、自分は生きている。だがケイトも義母も、あの椅子に座った途端、翌日には命を落とした。これは偶然なのか。メアリーの中では既に違和感は強烈なものとなってこびりついていた。ただの偶然だとしても、偶然にしてはできすぎていると思っていた。
 一度目ならばまだしも、二度目まで。
 いや、ケイトはまだしも、義母の場合は――メアリーが明確に、椅子に座るよう促してしまった。これは殺人と言えるのか。それとも。
 いったいいつからこんなことになってしまったのか。
 いったいいつから――。
 メアリーの視界に、緑色が映った。

 翌日、メアリーが買い出しに出て歩いていると、ちょうど立ち話をしている女たちが目に入った。メアリーは軽く会釈をしたが、彼女たちはひそひそとメアリーを見ていた。
 声は聞こえなかったが、きっと自分を疑っているのだと思った。
 二人ともメアリーの家に来て、すぐ翌日だ。あの二人はいったい何をしたのか。この家にやってきた二人がどちらも翌日に死んだという事実は、少しずつ村へと浸透していた。このままではメアリーが殺したと思われてしまう。そうでなくとも周囲の人間からそう思われては終わりだ。
 メアリーはただ、普通の暮らしができればよかった。夫を立て、ひっそりと影で彼を支え、ともに野菜を育て、この村の人間のように慎ましやかに暮らしたかった。そうすることが幸福であったはずなのに、その幸福はいまや遠くへ向かってしまった。こんなことがあってたまるものか。
 確かめなければならなかった。
 そういえば、と彼女は思い出した。
 ケイトも、義母も、あの緑の椅子に座ったとき、冷たいと言っていた。

 メアリーは家に帰ると、自分の椅子に座り込んでいるジョニーの横に立った。
「コーヒーでも飲む?」
「ああ……。うん、そうだね。頼むよ」
「インスタントでいい?」
「うん」
 時間外のコーヒーを、少し時間を掛けながら作る。
 ゆっくりと冷蔵庫を開けて、間違えたふりをして棚を開ける。インスタントコーヒーを取り出す。
「ダメね。お湯を沸かすのを忘れちゃった」
「いいよ、気にしないで」
 メアリーはヤカンに水を入れて、コンロにかける。
 お湯が沸くのを待ちながら、タイミングをはかった。
「ねえ、……そういえば、椅子には座ってみた?」
「椅子?」
「私の椅子」
「何か変なのかい?」
「いいえ。そういうわけじゃないけど。買うときには座り心地とか、見てみた?」
 ジョニーは考えているようだった。
「せっかくだし、座ってみる?」
 とうとうその言葉を伝えた。
 彼女の言葉に、彼は少しだけ珍しがった。彼女がこんなことを言うなんて。しかし、気晴らしをしたかったらしく、立ち上がると椅子を引いた。
 彼女がコーヒーを二つ持って赴くと、彼は緑色の椅子に座っているところだった。
「座り心地はどう? 冷たかったりする?」
「そうだね。少し冷たいかな」
「……そう」
 メアリーは少しだけ笑みを浮かべた。

 翌朝になって、メアリーは久々に六時を過ぎてから目を覚ました。
 隣にはもうジョニーはいなかった。きっとさきに起きたのだ。自分の妻が久々に遅くまで寝ているから、そのままにしたのだろう。メアリーは体を起こした。部屋を出ても、物音ひとつ聞こえてこなかった。廊下に出て、その先にあるダイニングへと向かうまでずっとなにも聞こえなかった。そしていよいよという時になって、心臓の高鳴りは最高潮に達した。一歩、また一歩と前に進む。
 最初に見えたのは、床に転がった足だった。二本。ちゃんとある。見覚えのあるパジャマ。足先は天を向いている。次第に下半身がすべて見えてくる。パジャマの上は乱れていた。ずいぶん暴れたと思われた。ぴくりとも動かない。床は赤く染まっている。
 彼女はようやく、ダイニングに入り込んだ。
 床に倒れ込んだ夫の口から、ぬらぬらとした赤い血が流れていた。まだ時間はそう経っていない。指先は喉をかきむしるようにして止まっていた。目は見開いたままで、恐怖と戸惑いが見てとれた。時間さえも止まったみたいだった。彼女はもうなんとも思わなかった。夫の死体を避けて歩き、その先にある椅子の前に立った。椅子は、メアリーを迎え入れる準備が整っていた。じっと緑色を見つめる。背を向けて、おずおずと手すりに両手をかける。
 そっと腰を下ろす。
 椅子は生温かった。いましがた誰か座っていたかのように。
 ようやく、椅子は彼女のものになった。

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