【短編】ギベレー島の眷属【全3話】
1
南太平洋に浮かぶ小さなギベレー島に上陸を果たすと、僕はようやく一息ついた。
船旅はひどいものだった。まだクラクラする。壊れかけたような古い漁船に、船の持ち主である漁師を含めた六人が身を寄せて縮こまっていたのだから当然だ。これから仕事だというのに体のあちこちが痛む。
陰鬱な顔の漁師は、五日後には必ず来ると言って早々に帰還した。こんなところに一秒たりともいたくないという風だった。二週間も歩き回り、説得し、ようやく見つけた案内人だったが、それでもやはりあまりここには居たくないのだろう。船が遠ざかっていくのを見てから、踵を返した。今日から五日間、この島をぐるりと回って測量するのが僕らの仕事だ。
「まったく、呆れた連中だ」
測量隊の一人でもあるフォーリィがあきれて言った。
「二十一世紀にもなって怪物なんぞを恐れている」
「そうだな。だけど、フォーリィ。怪物の噂だってバカにはならないさ」
「へえ、どうして」
「地元民たちから呪いや悪霊が出ると遠ざけられていた場所が、実は有毒ガスの発生地や、有毒カビの繁殖地だったって話はよくあることだよ。彼らの言う怪物だって、昔はこのあたりに流れ着いた動物が、外敵がいなくなって巨大化した姿かもしれない」
「はいはい、なるほどな」
フォーリィは肩を竦めた。
このあたりにはヨーロッパ圏の海外領土もいくつか存在しているが、ギベレー島もそのうちの一つということになっている。なっているとは言っても人は住んでいないし、無人島だ。地元の人間でもほとんど近寄らず、調査もほとんどされていない。そのためここに来るのにもかなり難航した。正直、まともな測量や生態系の調査さえされていない。国としても持て余しているが、手放すのは惜しいといったところだろう。
ギベレー島は周囲をぐるりと砂浜に囲まれ、中央に行くにつれて鬱蒼としたジャングルが広がって、真ん中には小高い山がある。島としてはずいぶんと小さく、住んでいる者は誰もいない。かつては少しだけ近隣の島から入植者がいたらしく、建物の跡が残っている。建物といっても古い掘っ立て小屋が二つ、三つあるだけで、かなり植物に侵食されていた。そのうちの一つがまだ使えそうだったので、そこの掃除から始めることになった。
僕を含んだ測量隊も、はっきりいってやる気はほとんど無かった。
人数は五人。
小さな土地なら三人程度でやるところを、島だからと一応は五人で派遣された。
僕ことバルトをはじめとして、フォーリィ、ナックル、ジョン、オースティン。
男ばかりのむさ苦しい旅路に、測量どころか肉体労働の多い仕事だ。どうしてこんなところに回されてしまったのか。
「まったく、前回の測量はいったいいつなんだ?」
小屋の中の植物を外へと捨てて、オースティンが言った。
「さあな。少なくとも三十年以上はやっていないさ」
「地元の小屋の原型が残ってるだけいいさ。あとはテントでなんとかなるだろう」
僕は肩を竦めた。
「それに、五日後にはここから帰れるはずだ。それまでには終わらせちまおう。大金を積んだんだから、来てくれないと困るがね。帰りの分もだいぶ積むと言ったから、来るとは思うがね」
ギベレー島というのも仮の名前だ。もともとはこの島にギベレーと呼ばれる怪物がいて、そこから名付けられたらしい。こんな小さな島に怪物がいるとも思えないし、居たとして、どんな怪物かもわからない。近隣の島の噂では、「食い殺される」「骨だけが見つかる」「霧の中の化け物」……と要領を得ない。いくつかの島で聞き込みをしたが、ギベレーの名は共通するものの、獣のようだったり、はたまた宇宙人のようだったりと様々だ。つまるところ、この島では死人は出るが怪物の姿は誰も見たことがない、と結論付けた。それなら、何か他の理由が――小さいが迷いやすいとか、助けが来なかったとか――なんらかの理由があったのだろう。土に含まれる成分の影響で、磁場が変になっている可能性もある。
そもそも、いまどき島ひとつを自力で測量しないといけないなんて、かなりの重労働だ。だれもここまでやってこなかったのは理解できる。
――小さい島だと思ってたが、気をつけないとな。ただでさえ、植物も生い茂っているし……。
僕はそう思いながら、小屋から植物を狩り出す作業へと戻った。
結局、一日目のほとんどを拠点作りに費やした僕らは、なんとか準備だけは整えた。
意外というか、なんというか――これが結構楽しかった。なにしろテントを立ててのキャンプなんて久しぶりだし、小屋も秘密基地のようでわくわくした。男ばかり、全員が小さな子供か、大学生に戻ったような気分になった。おまけにナックルが酒とつまみを持ち込んだのでおおいに盛り上がったのである。二週間も海外領土で時間を無駄にしたのに、よくもまあそんな時間があったものだ。
オースティンとフォーリィなんて、「つまみを増やそう」なんて言いはじめた。これまた持ち込んだ釣り竿で釣りまで始めてしまうものだから、ますますキャンプのような装いになってきた。僕らは仕事でやってきたのにな、とぼやくと、ジョンはにやりと笑った。なんだかんだ楽しんでいたのだ。僕らは一日目の仕事を放り出して、夜まで楽しい時間を過ごした。
テントで目を覚ますと、もうみんな起きているようだった。
昨日は少しばかり騒ぎすぎたかと思って、のろのろとテントから出る。
「おはよう、みんな」
「バルト、起きたか。フォーリィを知らないか?」
オースティンが困惑しながら言った。
「なんだ、いないのか?」
「ああ。俺と同じテントだったんだ。夜中にトイレに起きたのに、朝になっても帰ってきていない」
「昨日は結構酔っ払ってたからな。もしかして、島の奥の方に入っていったんじゃないか?」
「その可能性もあるな」
頷いて、残りの二人も頷いた。
まったく、今日から仕事だというのに。おそらく島の奥に入って戻ってこれなくなったか、途中で寝こけてしまったかのどちらかだろう。迷うような大きさではないと思うが、万が一ということもある。
「変な虫に刺されても厄介だろ。探しに行った方がいいかな」
「そうだなあ……」
ジョンがどうする、という目で僕を見た。
肩を竦めてみせる。
少し沈黙が降りてから、オースティンが口を開いた。
「仕方ないな。それじゃあ、三人は仕事を始めててくれ。俺は奥の方への偵察がてら、フォーリィを探してくるよ」
「わかった」
話は決まった。
僕らは測量の準備を始め、オースティンは密林の奥へと入っていった。もしかしてフォーリィがひょっこりと帰ってきてもいいように、必ず一人は拠点から目を逸らさないようにした。小さな島はぐるりと一周するのにそう時間はかからない。奥の方だって同じだ。密林と言ってもそれほど大きくはない。中央に山はあるものの、小高い丘のようなものだ。ミニチュアの島と言われた方がしっくりくる。それなのに、こんなところで迷うような事があるのだろうか。
それから三十分もしないうちに、植物がガサガサを揺れたかと思うと、オースティンの声が響いた。
「おおい! みんなあ! ちょっと来てくれ!」
フォーリィが見つかったのだろうか。
それにしては慌てたような声だった。胸騒ぎがする。僕たちは互いに顔を見合わせると、測量道具を置いてすぐさま走った。何かあったに違いない。
オースティンはすぐに見つかったが、その先にあるものが問題だった。
「これ、フォーリィじゃないか……?」
彼が見つけたものは、すっかり骨になったフォーリィだった。
2
人骨は服を着ていて、地面に倒れ伏していた。
衣服はすり切れたり、泥で汚れていたりしたが、彼が昨日着ていた服そのままだった。乱れはあったものの、胸ポケットには社員証が入ったままで、そばに携帯電話がそのまま残されている。確かにこの骨の持ち主はフォーリィかもしれない。まさかフォーリィがわけのわからない死体に自分の服を着せるような蛮行に出たわけじゃなければ。
「……フォーリィ、なのか?」
「まさか! 昨日の今日だぞ。こんなことが一晩でできるわけない」
そうだ。確かに一晩の出来事だ。
一晩の間にフォーリィの体をすっかり骨だけにしてしまって、もう一度服をかぶせてしまうって?
いくらなんでも非現実的すぎる。
まだ腐敗が始まっていたほうが受け止められたかもしれない。フォーリィらしきものはすっかり骨になってしまっていたし、あまりに綺麗だった。肉片ひとつついていないし、見てみると内蔵のほうもすっかり無くなっていた。
獣がいる、という可能性もあったが――。
「獣がいるとして、服がこんなにしっかり残っていることあるか?」
それも疑問だった。
まるですっかり、肉だけが洗い流されたような死体だ。
「フォーリィがふざけてるのか?」
「だったら、あの骨の持ち主は誰なんだよ」
「そりゃあ……、ここで死んだ誰か、とか……」
「それにしたって綺麗に残りすぎてる」
少なくとも不幸な誰かが死んでいるのは明白だ。国に持って帰って埋葬するか、元の国に送り返すかしないといけない。
「おい、フォーリィ! 冗談はよせ!」
オースティンが大声をあげたが、その声はわずかに響いただけで消えてしまった。再び静かになると、僕らはもう一度顔を見合わせた。
「とにかく――とにかく会社に連絡をしよう。フォーリィの奴はそのあと探せばいい」
「大丈夫なのか。こんなものを持って帰って……変な病気とかあるかもしれないんだぞ」
「会社の命令次第だな。それに……それに、これが……」
フォーリィ本人かもしれない。
僕たちはその可能性をどうしても信じられなかった。
誰もなにも言わなかった。
ただ黙々と自分たちの作業をしていった。
衛星電波を通じてメールで「島で死体を発見した」という旨の連絡を送ると、警察に指示を仰ぐからそのままにしろという命令が下った。少なくとも仕事をして忘れないといけなかった。フォーリィは相変わらず出てこなかったし、オースティンは仕事がてら探していたが、結局見つからなかった。
夕方になって軽く食事をとったが、昨日ほどの盛り上がりには大きく欠けていた。
オースティンは「暗くなる前に」と、もう一度フォーリィを探しに行くつもりらしかった。僕は止めたが、ナックルもついていくと言った。
「わかった。何がいるかわからないから、気をつけてくれ。何かあったら大声で叫んでくれれば、たぶん聞こえるだろうさ」
「そうだな。獣かなにかがいりゃあ早いんだけど」
ナックルは護身用の銃を懐に入れながら答えた。
「こんな超常現象みたいなことが……起きてたまるもんか」
「もうすぐ暗くなる。フォーリィみたいに帰ってこられなくなる前に、ちゃんと帰ってこいよ」
僕はそう言って二人を見送った。
あたりは急に静かになった。火の音だけが耳につく。それから、妙にじめじめと暑かった。昨日も本当はこれほど暑かったのか。僕とジョンはじっとりと汗ばむ中、ただひたすら二人の声がするのを待っていた。
たくさんの可能性が浮かんでは消えていく。
もしかしたらフォーリィが帰ってくるかもしれない……という淡い期待とともに。
ジョンと顔を見合わせたとき、密林の奥から悲鳴が聞こえた。僕らは急いで立ち上がった。それぞれ銃と、懐中電灯を持って森の方へと走った。
密林の中は砂浜以上にじめじめとしていた。水分を含んだ植物が顔を舐めていく。うっすらと霧が出ているようだ。
「オースティン! ナックル! どこだ、どこにいる!」
声は小さな島に響き渡るようだった。
「オースティン! いたら返事をしろ!」
「ナックル!」
声を上げ続けていると、植物の向こうに光が見えた。すぐそばにいる。茂みをかき分けていくと、その先の少し広くなった場所にオースティンが突っ立っていた。懐中電灯は地面に転がっていて、オースティンの足元だけが照らし出されている。
「いったいどうした?」
ナックルはがくがくと震えながら銃口を向けている。
「ば、ば、バルト。助けて、助けてくれ……」
オースティンは少しずつ近寄ってきている。
「なんだって? どうしたんだ?」
「やめろ! 近づくな!」
対するナックルは完全にパニックになっているらしく、いまにも引き金を引きそうだった。
「やめろ、ナックル! 落ち着け!」
「た、助けてくれ。助けて……」
僕はオースティンの姿を懐中電灯で照らした。そうしなければならなかった。だけどこの時ほど後悔したことはない。オースティンの頬には大きな穴が開いていた。抉られたような穴だった。中の筋肉が丸見えになっている。息を呑む。それは頬だけではなく、体のあちこちに開いていた。露出した腕に、丸みを帯びた穴がどんどん開いていくのだ。まるで酸か何かをかけられたようだ。
「ああ、ああ、ああ!」
血はわずかに流れるばかりだった。スプーンでえぐり取られたみたいに穴が開くと、そこを中心に穴が広がっていく。
「ああああ! やめろっ、やめてくれええっ、痛いっ、痛いぃ!」
オースティンは自分の顔をかきむしった。指が顔に開いた穴をひっかき、血が噴き出していく。その血も大して流れ出ない。次第に頬からも骨が剥き出しになる。薄い髪の毛がはらはらと落ちて、頭皮が見えたと思った次には、すぐ下の白い骨が露わになった。眼球が少しずつ抉られていき、鼻が消える。ふらふらと歩いていた歩みがとまり、呆然とその場に立ち尽くす。頭ががくがくと揺れている。
「うわあああああっ」
ナックルがやみくもに銃口を向けて、引き金を引いた。
乾いた音が島のなかにこだまする。
「おい、やめろ!」
このままじゃ弾を消費するだけだ。
僕はナックルを後ろから羽交い締めにした。最後の一発が空に向かって撃たれたらしく、次にはもうカチカチと音がするだけになった。
「ジョン、手伝ってくれ!」
ナックルは右に左にと大きく体を暴れさせ、僕ひとりでは押さえつけることができなかった。なんとか我に返ったジョンが一緒になって体を固定させると、今度は力が完全に抜けてしまった。涙を流しながらひぃひぃと息だけを吐き出している。
僕はおもむろにオースティンを見た。眼球のあった場所からは何も無くなっていて、頭の中身がすっかり空っぽになっていた。立っているのが不思議なほどで、やがて膝から――というより、足元から骨が崩れ落ちた。僕たちはナックルの体を引きずりながら、とにかくその場から離れるしかなかった。
茂みの中を抜け、小さな枝葉に傷を付けられるのも厭わず走り抜けると、ようやく砂浜近くのアジトに戻ってきた。ナックルの体を離すと、彼は引きずられて泥だらけのまま地面に呆然と横たわっていた。僕とジョンは顔を見合わせた。自分の手が震えているのがわかる。
「あれは、なんなんだ」
僕はなんとかそれだけ言った。
「わからない……」
「電話、そう、電話だ。衛星電話が通じるはずだ。いますぐ助けを……」
「だれに?」
ジョンは吐き捨てるように言う。
「いったい誰に?」
引きつった顔が僕を見ている。
「明日の朝になったら、あの猟師に電話を掛けよう。明日でも明後日でもいい。荷物を纏めて帰るんだ」
僕はジョンの肩を叩き、テントの中に入り込んだ。
できるだけ冷静にとは思っていたが、何も食べる気にもなれず、眠れもしなかった。
3
眠りについたのは朝が近くなってからで、ジョンが呼ぶ声で目を覚ました。睡眠不足のせいか頭痛がする。外に出てみると、ナックルがいなくなっている、とジョンが言った。
「あのバカ」
僕はテントを飛び出した。
「ナックル! おおい、どこに行った!?」
まさか島の中央に行ってしまったのか。
近くにはいないようで、砂浜近くで声をあげても反応はなかった。
テントの中を調べていたジョンがやってきて、ナックルの荷物だけが、一部を残して綺麗に無くなっていると言った。どうやら自分の荷物だけを纏めて、どこかに行ってしまったらしい。
「ということは、島の中央に行ったわけじゃないんだな」
僕はそう言ったが、それならどこへ行ったというのか。
ジョンも同じことを思ったらしい。
「でも、それならどこへ行ったんだ?」
「まさか、助けが来たわけじゃないだろう」
「俺が起きているときは、少なくとも船みたいなのは通りかからなかったよ。お前は?」
僕は首を振った。ジョンと目を合わせる。たとえ島の中央に行ったわけでなくとも、最悪の事態には違いない。僕らは再び二手にわかれて、ナックルを探し始めた。
「バルト!」
やがて、ジョンが僕のところに走ってきて、真っ青な顔で波打ち際を指さした。駆けつけると、浜の岩が突き出ているあたりに、ナックルらしき人間がうつ伏せに浮かんでいた。
二人でナックルの死体を浜まで引きずってくると、ジョンは砂の上に尻餅をついた。
「泳いで帰ろうとしたんだ。バカなやつ」
ジョンは震えながら言ったが、僕は彼を非難することはできなかった。
かといって、これでは仕事もできないな、なんて冗談を言う気にもなれなかった。
ナックルの荷物は流されてしまったらしく、死体だけでも流れ着いたのは奇跡のようなものだった。船もなしにどうやって帰り着こうとしたのだろう。僕らはナックルのテントを解体し、彼の死体を包んだ。死体だけでも島に持ち帰りたかった。フォーリィとオースティンの死体はまだ小さな密林の奥で骨だけになっている。彼らの体の一部だけでもいいから持ち帰りたい。でもそれには、圧倒的に人手が足りなかった。
それに、あの奇妙な現象が再び起きるかもしれない。
僕は、なんとかメールで緊急事態が起きていることを伝えた。
少なくとも人が二人、何かの要因で死んでいること。そして一人がこの事態に耐えきれずに逃げだそうとして死んだこと。それから僕らを運んできた漁師の男に連絡をつけたが、忌々しいことに電話にすら出なかった。
「くそっ!」
五度目の電話を終えて、僕は電話を叩きつけそうになった。敢えて出ないのはわかりきっている。僕たちにできることはただひとつ、島の奥深くに立ち入らないようにして、ひっそりと時間が来るまで砂浜で待っていることだけだ。もう仕事なんてどうでも良かった。いや、果たして仕事になるのか。
僕とジョンは身を寄せ合うように。砂浜で過ごすことにした。一刻も早く船を寄越してほしかった。漁師だろうが、会社だろうが、国だろうが。この島にいる恐ろしい何か――あるいはこの島で起きている忌まわしい何かから逃れられるなら何でも良かった。
「あの超常現象について、何か知ってることは?」
僕は皮肉って言った。
「残念ながら知らないな……」
「だろうな」
せめて怪物の姿がはっきり見えていれば、どんなにチープであれど笑い飛ばしてやったものを。
僕らは姿の見えぬ人食いの怪物に見つからないよう、震えてその夜を過ごした。
翌朝も、電話は通じなかった。正確に言えば一度だけ電話が通じたが、向こうが電話を切ってしまった。会社からもメールの返事は来たが、いまの状況に困惑している様子が見てとれた。
僕もジョンも呆然と朝を過ごし、昼を過ごしたあと、夕暮れが訪れた。
ジョンが起き上がり、不意に荷物をあさり始めた。
「何してるんだ?」
「せめて、一発だけでもぶち込んでやりたくてさ」
ジョンはそう言うと、銃やライターを装備した。残りの食料を口にして、腹におさめる。
「お前はここに居てくれ、バルト」
「……わかった。相手の正体はわかったのか?」
「わからない。俺がダメだったら、頼むよ」
僕は頷いた。残された戦友を見送ることしかできなかった。
無事であることを信じて、神へと祈る。静かな時間は永遠にも思えた。微かな声が密林の向こうから響いてくる。
銃声がする。
小さな島ではこんなにも音が響くものだったのか。
「わかった、わかったぞバルト! 火だ! もっと大きな火を……くそっ、くそっ……くそおおお!」
小さな声が叫びとなって島に響いてくる。
僕は泣いていた。
翌日、僕はできるだけ詳細にメールを書いた。
戻ってこれた時のために、パソコンやテントはできるだけ海に近いところへと隠した。もちろん隠し場所もメールに送っておいた。果たして信じてくれるかどうかは疑問だが、事実は事実だ。
たとえ毒ガスか、野生のケシ類か何かで全員が発狂したのだと思われても、それでもよかった。ここは危険なのだと伝える必要がある。僕が失敗した時のために。
残された銃と、ありったけの武器を手にした。できればガソリンが欲しかったところだが、この際四の五の言ってられない。なんとか残されたもので火をつけるしかない。そうでなければ……。
予備のガス缶を携え、奥へと進む。
奴等は夜にしか出てこなかったが、昼間は大丈夫だろうか。
準備を整えてから気がついたが、思えばこの島に来てから、獣や虫を一匹も見ていない。鳥さえもだ。静かすぎた。小さいとはいえ密林があり、茂みがあるのに、それらしい生きものはただの一匹として存在していない。
その時点で気付くべきだった。
僕は奥へと進む。奥へとたどり着いたとき、ジョンの死体を見つけた。ジョンの死体はすっかり骨になっていた。僕はこの近くだとあたりをつけて、バーナーに火をつける。あたりの空気が一気に湿り気を帯びていく。
まず、顔に痛みが走った。始まった。
僕はガス缶の一つを開けて、バーナーであぶった。吹き出した炎が植物に引火していく。あたりの空気が変わった。湿り気を帯びた霧に向かっても炎を吹いていく。こいつらよりも先に炎上させなければ。痛みは露出した顔から、腕にも飛び火していた。
腕に開いた穴は、わさわさと動いていた。
こいつは超常現象でもなんでもなかった。
霧のような微小生物たちの塊が、体を食い荒らしているんだ。こいつは夜にだけ出てきて、何も知らぬ人間たちを食い荒らして――。
僕らはここに来るべきではなかったのだ。
奴等が飢えて一匹残らず死んでしまうまで、僕らはここに来るべきではなかった。
でももう大丈夫だ。僕の命はここで潰えてしまうだろうが、僕らには衛星電話もメールもある。だから僕のメールが届けばおしまいだ。ざまあみろ。
この話を信じてもらえることを祈っている。神に誓ってこの話は本当なのだから。
奴らは僕の耳の中にまで入り込んだらしく、さっきまでしていた轟音の滝のような音がもうしない。耳の機能もすっかり食い荒らされてしまったのだ。僕はガス缶を思い切り投げつけると、炎を吹き出した。一気に炎が上がる。奴等の悲鳴はもう聞こえないが、それでも良かった。痛みが足先や腹や背中を侵していく。このまま喰らい尽くされることだろう。
僕は霧の中に向かって炎の前進を続けながら、やがて暗い夢の中に落ちていった。
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