人は自分を救済するために生きている
頑張った割に全く生かされていないのが、学生の頃に取った資格だ。
日々、頭の悪いツイートを垂れ流すだけのbotになっている私は、どういう小狡い策を使ったのか認定心理士と学芸員の資格を持っている。取った本人も忘れているほど、今の生活に馴染みのなさすぎる資格だ。ぼんやりしていたら、それこそ忘れ去られたまま生涯を終えていそうな勢い。
小学生の時、自分がなんだか変だと自覚した。
玄関の鍵をかけたのに、何度も確認しに戻った。当時は和室で寝ていたのだけれど、畳の目と布団がきっちり揃っていないとダメだった。夜中に何度も目を覚まし、その度に布団を真っ直ぐに直していた。あと、ランドセルの中身を何度も全部出しては確認して入れ直したり。
夜中にそんな奇行に走る娘を、両親は不気味に思っていたらしい。でもまあ、神経質とか心配性とかで片付けていたようだ。
自分のことを、ほんのり精神疾患ではなかろうかと疑っていた私は、エスカレーター式で入った大学で心理学を学べる学部を選んだ。そして念願叶い、強迫神経症を知ることとなる。
自分の奇行に名前がついた途端、ものすごくホッとしたのを覚えている。あまりにも馬鹿らしい習慣で、友達にさえ話したことのなかった自分の変な癖(と当時は思っていた)。
ゼミで強迫神経症の話題が出た時、初めて自分の症状について人に話した。鍵を確認するために何度も家に戻ったこと、小学生の頃は布団を直すために毎日寝不足だったこと。布団の方はベッドで寝るようになってからは落ち着いていたけれど、カバンの中身を何度も何度も確認したりするのは続いていた。
その話をしたら、ゼミの教授(精神科の先生)がめちゃくちゃ喜んでいた。
不思議なことに、強迫神経症の症状であることを知ってから、奇行は目に見えて落ち着いた。ぼんやりしている時なんかは鍵かけたっけ?と気になることはあるけれど、家を出るときに確認をしていればわざわざ戻ることもなくなった。いい意味で「大雑把に」生きられるようになった気がする。よくわからないから怖いのだということを学んだ。
最近、改めて心理学の勉強をやり直したいと思うようになった。面白い、というのももちろんだし、悩みを相談をされることが多いというのもある。書店で仕事中に、お客さまから家族について相談されたのには困惑した。なんで私に聞く。
私は自分の考えを押し付けるのが嫌いで、いつもひたすら聞き役に徹しているのだけれど、それでも次から次へと相談事がやってくる。なんでや。アドバイスなんてできんぞ。だいたい、私自身が問題を抱えすぎていて沈没寸前だというのに。
そんな自分をなんとか生きやすくするため、というのも、学び直したいと思った大きな理由なのかも。「人は自分を救済するために生きている」という、文豪ストレイドッグスに出てきた大好きな言葉があるのだけれど、人生が終わるときにそれを実感するのかな。