エッセイを読みたくなるのは究極のIメッセージだから【4分】
私は、エッセイを読むのが好きだ。
今こうして自分自身もエッセイらしきものを書いているわけだけれども、元々は人のエッセイを読むのが好きになったことが始まり。
もちろん、エッセイを読むのが好きなのは、この世に私ひとりじゃない。
人は、なぜエッセイを読みたくなるのか。
今日は、そんな話を書こうと思う。
エッセイとは自分語りである
世間で、避けたことがよいと言われることのひとつに、「自分語り」がある。
自分は〜、自分の〜、自分にとって〜、とばかり話すこと。
これを聞いても、相手はあまり心地よくなるものではないから、避けたほうがよいらしい。
たしかにね。
それはそうだと思う。
自分語りは好まれにくい、ということを前提にしたところで、エッセイについて考えてみる。
エッセイとは何か。
自分が出会った人や事柄をもとに、それに対して思ったこととか、後日のあんなことやこんなことに繋がったとか、そういうことを書き綴ったものがエッセイ、ということになっている、はず。
そうならば、エッセイとは、避けるべきとされる、あの、自分語りに他ならないことになる。
でも、エッセイを読むのが好きな人はけっこう多いし、私も好きだし、エッセイを書く人もいっぱいいるし、私も書くし。
これってどういうことなんだろう。
あの、忌まわしき(言いすぎ)自分語りそのものなのにも関わらす、エッセイは多くの人に愛されている。
自分語りとはIメッセージである
私は、エッセイを好きになった初期に村上春樹や川上未映子のエッセイを特に好んでいた。
それは、村上春樹や川上未映子の小説が好きだったことに起因していて、こんなにも私の琴線に触れる小説を書く、村上春樹や川上未映子のことをもっと知りたい、と思ったということだ。
そのうち、エッセイそのものが好きになり、向田邦子脚本のドラマは1本も観たことがないのに『父の詫び状』を読んだり、東海林さだおの漫画をひとつも読んだことがないのに『丸かじり』シリーズを読んだりしていた。
エッセイとは自分語りなのだから、少なくとも書き手に対しての興味がなければ面白いと思えなさそうなものなのに、私は向田邦子や東海林さだおのことをよく知らずに、彼女ら彼らのエッセイを面白がって読んでいた。
よく知りもしない人の、個人的なエピソードや考え、悪く言えば自分語りを読んで、楽しんでいた。
いったいなぜだろう。
そこで私は、ある仮説を思いついた。
エッセイとは自分語りである。
しかし、自分語りとはIメッセージである。
ゆえに、人はエッセイを読みたくなるのではないか。
Iメッセージとは
ご存知の方も多いかもしれないが、ここでIメッセージについて説明しておく。
人対人のコミュニケーションで用いられるメッセージには2種類ある。
「I(アイ)メッセージ」と「You(ユー)メッセージ」だ。
例えば、この人の言い方ちょっと怖いな〜、と思ったとき
「あなたの言い方はちょっと怖いです。」
と伝えるのが、Youメッセージ。
いっぽう、
「あなたがもうすこし優しく話してくれたら、私は嬉しいです。」
と伝えるのがIメッセージ。
Iメッセージは、「私」を主語にして自分の気持ちを伝えることで、自分の要求をやんわりと届けようとする。
Iメッセージが万能!というわけではなくて、例えば、上司が部下にするべき仕事を伝えるのには、
「あなたがA社の見積書を作成してくれたら、私は助かります。」
よりは、
「あなたはA社の見積書を作成してください。」
のほうが、適切だろう。
Iメッセージとは、私の言葉で表現するとある種の「やんわり言葉」と言える。
やんわり言葉については、前回の記事で書いたので、こちらも併せて読んでもらえると嬉しい。
Iメッセージは心地よい
私の仮説は、
エッセイとは自分語りである。
しかし、自分語りとはIメッセージである。
ゆえに、人はエッセイを読みたくなるのではないか。
というものだ。
エッセイとは自分語りなんだけれども、同時にIメッセージでもあって、だからエッセイを好む人が多くいるのではないか。
エッセイ好きな友人知人の話で、しばしば聞かれるのが、疲れているときや忙しいとき、小説は読めない、読む気にならないけれど、エッセイなら読める、読みたい、というもの。
疲れていようが忙しかろうが小説でも何でも読みまっせ、という活字中毒者(私のこと)もいると思うけれど、私の友人知人のような感覚をお持ちの方、けっこういるんじゃなかろうか。
小説って、種類にもよるけれど、私の場合、主人公の立場、気持ちになって読み進めることが多い。
だから、自分はこの主人公とこういうところが似ているな、ちがうな、とか思いながら、けっこう自分のことを考えることになる。
たいしてエッセイを読むときには、ほとんど自分のことは考えない。
へー、この人はこんなことを経験したんだー、こんなことを考えたんだー、って思いながら読む。
これが、心地よいのではないか。
もう疲れちゃって、忙しくって、自分のことなんてこれ以上考えたくないやー、っていうときに、エッセイを読みたくなるんじゃないか。
他人の自分語りを、欲するんじゃなかろうか。
おわりに
雪崩れ込む「私は」「私が」「私だけ」そう、それでいいそれがいいから/弓吉えり
エッセイを読んでいると、一人称が雪崩のように目に飛び込んでくる。
だけれど、だからこそ、それが心地よいときがあって、「それでいい」を通り越して「それがいい」とさえ思う。
もちろん、その書き手のことを知りたくて、とか、その書き手の文章が好きで、とか、エッセイを好んで読むことにはいろいろな理由がある。
今回の仮説は、私ユミヨシが徒然なるままに綴ってみたことなので、さまざまな意見があるかもしれない。
そんな声も、ぜひお寄せいただけたら嬉しいです。
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