個人的に勝手に狭い定義を採用している言葉について、物語(Story)とセンス(Sense)の話【後編】

先日書いた記事の後編です。

友人のPodcastでも似た様な話をしてきたばかりという気もしますが

「センス」の話です。(Podcastではホストが『センスの哲学』に言及していますが、残念ながら私は未読です)

嫌いな言葉の代表格

センスは、子供の頃から苦手な言葉でした。お絵かきも音楽も運動も苦手でしたし、長じてからも非モテ陰キャ街道まっしぐらの自意識過剰な若者にはファッションにも一切の歓びを見いだすことができませんでした。服装に気を使っていない様に見えながら清潔さに対する疑念を極力喚起しないためにはどうしたらいいのか、ということにはかなり気を使いましたが。

センスはなにやら良し悪しがあり、その根拠がわからない。点数や勝敗を示すわかりやすい基準が無く、仮に得意分野があったとしてもその「センスがある」という自認には根拠がないわけで、そんな状態で自分を褒めるかのような態度は正気の沙汰とは思えない。

ということで、基本的にはあまり使わない様にしてきた言葉ではあります。

でもセンサー(Sensor)は嫌いではない

一方で、機械全般は好きなので、今でも電気工作のパーツはたまに買い込んでしまいます。各種センサーとか。大学では認知科学をかじったので、機械部品としてのセンサーだけでなく人の感覚器の話にも関心があります。これらに共通する特徴として、どんなセンサーも調べたい量の絶対値を直接測っているわけではない、ということが言えると思います。つまり、センサーとは相対値、変位量を測る仕組みだということです。(機械部品の場合のキャリブレーションの話とか、視覚の信号は変化がないと途絶える、なんていう話が細々連なりますが、ここでは割愛します)

一般に、微細な量を検知しようとすると「良い」センサーが必要になります。もちろん目盛の細かい物差しは巨大物を測るのには不適切なわけで、スケールが大きいものが安物で、細かいものが高級品と決めつけるのは不適切ですが、細かいものはノイズの影響を受けやすいのでそれを抑えるための工夫がコストに跳ね返るという面もあると思います。

また苦手の話に戻る

ところで音楽も運動も苦手、という話を挙げました。それらのセンスが良いというと練習なしでもすぐにできるようになるとか、将来的にプロになる潜在能力を秘めているという意味合いにも取れるかもしれませんが、ここにも感覚という要素は大きいのではないかと思っています。というのも、私自身はかなり早い段階でこれらのジャンルにおける自分自身の感覚の乏しさを自覚していたからです。

漫画などで描写される「酷い音痴」は自分の歌の下手さに気がついていなかったりするものですが、私の場合はそこまでではありません。自分が音程を外していることには気がつくことができる。しかし、それが高すぎるのか低すぎるのかはわからない。運動にしてもそうで、各動作の過程で自分の身体がどうなっているのかがわからない。肘を曲げているのか伸ばしているのか、伸ばしているとして肩がどの程度開いたタイミングで伸ばし始めたのか。何一つ覚えておくことができません。これでは、仮に試行を繰り返し、そのフィードバックを素早く得ることができたとしても(良い学習の条件として知られています)、改善に繋がり難いわけです。

センスが良いとはどういうことか

私の解釈では、「細かい違いが検知できる」「その違いの良し悪しが判断できる」の2つの能力を重ね持つことが「センスが良い」の実体になります。仮説検証の話をする時にも、いきなり正しい仮説を出してもいいが、クイックに棄却されるがその時に得られる情報が大きい仮説を出すという道もある、という話をすることがありますが、「センスの良さ」についても、いきなり正解できることよりも最終的に正解に至る嗅覚のようなものの方が良い定義になると考えています。(いきなり正解する方が「センスがある」という語感に近いと思う人の方が多いとも思いますが)

「良し悪し」の判断というと、その判断基準はなんなんだ、ということになりますが、これは主観的な「心地よさ」で良いのではないかと思います。このあたりが感覚的なのも、センスっぽいとも言えるかもしれません。ここについては生物進化のモデルが当てはまると思います。たくさんの試行の中で淘汰圧をかけることで良い結果が生き残る。つまり色々なことを試した時にそれぞれにどのような違いがあるのかを検知し、その結果が自分にとって良い方向の違いなのか逆に悪い方に向かっているのかが判断できると、少しずつ良い方向へ歩み寄っていくことが可能になります。違いだけわかっても悪い方を棄却するということができなければ、場当たり的に試行を繰り返し偶然良い結果にぶつかることを祈ることしかできません。

マクロなレベルで出来上がったもの同士の比較、つまりは細かい違いではなく大きな違い同士を比べて良し悪しを判断することの方が、細かい違いで良し悪しを判断するより簡単です。例えば写真を取るときの画角の決定において、今ファインダー(ではなくスマホの画面な気もしますが)に写ってる状態と僅かに被写体に近づくなりズームインしたものではどちらが良いのか、あるいは被写体の位置をほんの少しずらした場合にどちらがより良いのか、などが検知・判断できるのであれば、そのセンスを連続的に適用して(少なくとも自分にとっての)最適解に向かって前進していくことができます。それができない場合はいったりきたりを繰り返してなんとなく良いところにぶつかることを期待するギャンブルになってしまう。これが、狭い意味でのセンスの有無だと思うわけです。

まあ、これはあくまで様々な分野においてセンスの無さを自覚している私が、もしセンスがあったらこんな感じなんじゃなかろうか、と一方的に夢想してるだけの論なので、実際にハイセンスな人達の見ている世界とは全くかけ離れている可能性はかなり高いわけですけど……

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