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物事をどう捉えるか、が、似てる人としか「雑談」はすべきではない。

Twitter上での炎上事案の様子などを見ていると、藁人形論法につぐ藁人形論法で相手の言ってることを後から叩きやすいように歪んだ形で解釈しあっていることが多いことに気がつきます。そうした歪んだ解釈に対するリアクションとしてしばしば見かけるのが「そんなことは言っていません。書いてないことを勝手に読み取らないでください」というような言い回しです。定量的にその妥当性がどれだけ示されているのかはわかりませんが、日本語のコミュニケーションはハイコンテクストである、とよく言われています。先ほどの反論に対しては、文脈や行間、さらには空気までもを読んで、効率の良いコミュニケーションを実現する、「書かれてないことまで読み取る」ことこそ我々の長所ではなかったのか? と思わなくもありません。文脈を読み取ることはどこまで推奨あるいは歓迎され、どういう場合には避けなければならなくなるのでしょうか。

言葉の裏を読む、には2種類ある?

発話された文の字義通りの意味だけでなく、発話の意図を理解する、ということを「言葉の裏を読む」と言ったりします。いわゆる言語行為論の領域の話になりますが、「暑いね」という言葉を「エアコンの設定温度を下げて欲しい」という意図であると受け止めるようなケースですね。実際にはそういう要求をしているつもりがなく、ただ暑さへの共感を求めていたり、ただ純粋に自分の感情を表明しただけである、ということもあるかもしれません。発話者の意図が100%このうちのどれかに合致するのではなく、どれもが混ざり合ったような状態であったと捉えた方が現実に近い、という考え方もありそうです。また、実際に発話時点でどういう気持ちであったかを、後から正確にトレースすることはもしかすると本人にとっても難しいかもしれません。一度の発話だけでは、相互理解が成り立ってるかどうかについて決定することは不可能であり、その後も続くやり取りの中で時として間違った解釈が後から修正されるなどしてコミュニケーションが成立する、というのが現実に近いのではないでしょうか。

ひとまず、このやり取りの場合、どのような過程を経て「裏を読む」ことが行われているか、細かく考えてみましょう。

  1. 「暑い」と言っている以上、その人にとって快適と見なせる温度より現在の温度は高いと思われる。

  2. もし同室にいる自分も同じ様に感じていることが確認できれば、その場の全員が不快であることになる。

  3. 聞き手は、エアコンの操作で室温を下げることができる。

  4. 発話者は聞き手が全員の不快を解決する手段を持っているなら、それを実行に移す親切心を持っていると思われる。

  5. 発話者は、判断を聞き手に委ね、「暑い」ということに同意しているのであればそのまま全員のために温度を下げることを期待している。(仮に不同意なのであれば、それを推定できるような返答を期待している)

かなり冗長な表現になってしまいましたが、実際にはもっと細かいステップや脇道が存在するのではないかと思います。ただ、相手がどう考えているのかを想像し、その中には相手からは自分がどう考えていると思われているのかという想像も含まれている、という構造があるという点が重要だと思います。このパターン、つまり通常の意味での「言葉の裏を読む」は、非常に共感的なプロセスであると言えそうです。

私はこの共感的なプロセスの他に、もっと殺伐とした論理的な演算による「言葉の裏を読む」行為が存在するのではないかと考えています。例えば、先日友人と話をしている中で、「自分はPDCAのP(準備)とCA(振り返り)を重視している」という発言がありました。このこと自体なかなか面白いテーマだと思いますが、それはさておき、私は脊髄反射的に、「それは単にD(実行)を軽視しているだけということになるのではないか」と考えました。共感的なプロセスから考えれば、PDCAをより良く回すために真剣に考えている人が実行ステップを軽視しているはずがありません。私も友人が実行の軽視を主張しているとはまったく考えていませんでした。しかし、PDCAの4要素しかないもののうち3つを重視するということは、相対的に残された1要素を重要性が低いものと見なしている「ことになる」、と考えたわけです。発話者の意図に寄りそうのではなく、言葉そのものを字義通りに受け取った上で、それを論理的に展開していった結果として、どういうことまでを「言っていることになる」のかを考える、というのも「言葉の裏を読む」ことの、それこそ裏パターンとして存在しているのではないでしょうか。

裏読みの表パターンと裏パターンはそうはっきりわけられるものではない

表パターン(通常の意味での共感的なプロセスとしての「言葉の裏を読む」)について書いたところでも軽く触れましたが、たとえ本人であっても自分の意図を明確に言葉として把握しているとは限りません。そもそも明確な意図などというものが確固たる存在としてあることを想定するのは議論として乱暴です。ですので、裏パターンの様な解釈に後から触れることで、発話者が事後的に自らの「真意」に気がつくこともありえます。

また共感的なプロセスの結果なのか、論理的な推定なのかが曖昧なケースもあります。例えば、職場で同僚とランチに行こうとする時に、どの店へ行くのかを決めようとしてるとします。

A.「午後イチで打ち合わせが入ってるんだよね」
B.(近場の店がいいのか。じゃ、揚げ物メインの定食屋、韓国料理、ベトナム料理の三択になるな)「昨日食べ過ぎてて、重いのは無理」
A. (重いメニューしかない定食屋は消えたか。韓国料理には冷麺なんかもあるにはあるけど基本的には焼肉ランチの店ってイメージだし……)「じゃ、ベトナム料理にしとこうか」

二人とも共感的に相手の意図を汲み取ろうとしています。その上で、最後のベトナム料理の絞込は消去法ですので、論理的な推定と言えます。もちろん、ここまでのやり取りは100%正確な読み合いになっているわけではありません。A.は必ずしも物理的に近いお店だけを意図しておらず、少し離れているけど提供までの時間が短い店とかすぐに食べ終わる料理も視野に入れていたかもしれませんし、B.はA.に結論を一発で出して欲しいとまではおもっておらず「冷麺ならあり」と考えていたかもしれません。三択であることと、そのうち二つを否定していること、の両方が成り立っていて初めてこの消去法は妥当だったことになります。

推定は100%じゃないから対立的な時には向かない(トドメを刺せないような中途半端な攻撃はしない方が良い)

先ほどの例は、協調を目的としてお互いの意図を読み合うコミュニケーションでした。なので、100%の論理的な厳密さを求めず、前提条件の確認なども省略して消去法を使っても特に問題はおきませんでした。これがもし、対立的な関係だったとしたらどうでしょうか? 「じゃ、ベトナム料理にしとこうか」のところで、「なんで勝手に決めるの? 他の店の選択肢だってあるじゃん。韓国料理店でも冷麺とか食べられるし」という反論の余地を突かれる可能性がでてきます。

ロジックを経由して言葉の裏を読む、というのはなんとなく知的というかテクニカルな印象もありますし、思い付いた時にはつい言ってみたくなります。しかし、日常会話におけるロジックの効能には限界があります。初めから厳密な議論ではないので、「三つの選択肢から二つを除けば、結論は残された一つに決まっている」という構造自体は推論として妥当であっても、そもそも選択肢がその三つであることは厳密に確かめられているのか、二つは本当に取り除かれているのか、などはミクロに精査すれば隙がでてきてしまうものですし、裁判をしているわけではないので細かい論点については話の途中でポジションをいくらでも変更する自由がお互いにあります。そのロジックを思い付いた側だけが勝手に想定している前提というものは探せばいくらでも出てくるのですが、思いつきが生み出す興奮によってそうした足下の不安が見えなくなってしまう、ということもよくあります。そうしたロジックを振りかざす言説でもって相手の意思を完全に挫くことができるとか、周囲の第三者の圧倒的な賛同を得られるなど、さらなる反論を受けることを考慮しなくて良い状態まで実現するのであれば、もしかしたらそうした攻撃が有効というケースもあるかもしれません。しかし、一般にはそれで相手や周囲が納得して最終的な合意に至ることはまずありません。自分の方が派手に攻撃的な行動をとってしまった後で、手前勝手に想定していた前提などを指摘されてピンチに陥るリスクなどを考えると、あまり賢い振る舞いとは言い難いのです。

では、裏パターン(ロジックによる推定)には意味がないのか

裏パターンというのは、結局の所、そのまま口に出してしまえば単なる揚げ足取りです。揚げ足取りというのは(もちろん、私は個人的には大好きですが)、基本的に皆から嫌われる行動です。嫌われるようなことを好んで行うのは倫理的にもあまり良いこととは思えません。では、このような思考には価値はないのでしょうか?

私は、先ほどのランチのお店を決めるやり取りにでてきた消去法の様に、表パターンの共感的なプロセスを補完する形でロジックを活用することには価値があると考えています。

例えば友人とのPDCAの話に戻って、具体的に考えてみましょう。

  1. 全体がPDCAの四要素しかない

  2. PとCAの三要素を重視する

  3. 振り分けられるリソースの総量は固定されている

  4. 重視するとはより多くのリソースを投入するという意味である

という前提がすべて正しいのであれば、おそらくD(実行)に投入できるリソースは「PとCAを重視する」という指針を持たない場合よりも少なくなってしまう、ということはかなり妥当な推論であると言えます。

しかし、共感的なプロセスを通じて、私は彼が実行を軽視しているとは思わなくなっています。するとここには矛盾がある。対立的な関係であれば、この矛盾の責任を相手に押しつけることになるかもしれませんが、今は協調的な関係にあります。従って、私はこの矛盾の解決を自分の側に求めることになります。つまり前提を疑います。2.は相手が直接言っていることですし、4.は一般的な用語の使い方の範疇なので、疑って精緻化することは可能ですが、どちらかと言えば1.3.の方が見直しの余地が大きそうです。

例えば全体がPDCAのみではなく「無駄な時間」「さぼり」「余力」の様な要素を含んでいると考えているかもしれません。何かを重視することなく基本的に均等配置したPDCAの上に、さらにこれらのその他要素から引き剥がしたリソースを配置していく、という話をしているのかもしれません。あるいは、1つの仕事のことだけを考えているのではなく、複数の仕事が平行して走っていて、それぞれのPDCAサイクルが回っている、という世界観なのかもしれません。この場合は仕事の間でのリソースの分配(取り合い)が発生するので特定のサイクルの中でのリソースの総量が事前に決まっているという前提は崩れます。あるいはもっと単純にPDCA「サイクル」なのだから直列にどこまでも繋がっていて「リソースの総量」というものを事前に特定の時間枠の中で固定化させて考えること自体に疑問を感じているのかもしれません。

このようなことを考えていくことで、自分にとっては当たり前ではない、相手の前提条件、世界観のようなものに対する新たな仮説が生まれてきます。仮説が生まれたら、その新しい前提とこれまでに交わされた言葉の辻褄をチェックし、検証を行います。その過程の中で、例えばこのPDCAの例で言うと、その場では少なくとも表面的には各ステップの違いについて語っている様でいて、実は「サイクル」として何度も巡ってくるという観点を重視している、ということが見えてきました。

裏パターンは、対話の相手の隠れた前提をあぶり出すことで議論の次元を高めるツールとして、非常に強力なものだと思います。

裏パターンの進め方

最後に、具体的にどんなやり方で言葉の裏を読むことを、裏パターンと呼んでいたのか、について補足の説明をしたいと思います。まず、ここで行っているのは、「実際に何を言ったのかだけでなく、事実上何を言っていることになるのか、を考える」ということです。

基本的には消去法の形をとります。補集合の把握という言い方の方が正しいかもしれません。「何を言っていないか」を把握し、その裏返しを主張してると仮定します。そのためには議論や選択肢の全体を掴めていることが大前提です。全体「PDCA」から、実際に言ったこと「P、CAを重視」を引き算することで、「Dを重視」だけが存在しない、という結論を得ます。他のことは言っているのに、Dを重視だけは言わないのだから、Dのことは軽視しても良いと言っているのと同じだ! というわけですね。対立的な関係であればこれは邪推と言われる類いの言い草です。そういう意味では、いったん邪推をしておいてその結論を前向きな議論の叩き台にする、というのがここでいう裏パターンの全てであると言ってよいのかもしれません。

全体 - 実際に言ったこと = 何を言っていないか

の公式で成り立ってるとすると、「実際に言ったこと」の解釈でのすれ違いもないわけではありませんが(特に対立的な場合は「言った言わない」もありますね)、大事なのは「全体」をどう捉えるのかです。視野をあえて狭くとれば全体のサイズが小さくなり、この公式を使っての結論が出しやすくなります。それで矛盾が生じるのであれば、つまり全体を狭く取りすぎたということですので、今度は視野を広げていけば、新たに視野に入ってきた要素にその対話において重要な役割を持つ相手独自の前提が含まれていることが期待出来ます。

具体的なやり方を補足、と言っておいて、最後の最後ではまた抽象的な手続きの話になってしまいましたが、このような方策で、つい「邪推」してしまう頭の働きを前向きな力としても活用していけるのではないかと考えています。

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