個人的に勝手に狭い定義を採用している言葉について、物語(Story)とセンス(Sense)の話【前編】

子供の頃から、よく使われるけれども「ちゃんと」意味が理解できている気がしない言葉、というのがいくつもありました。ここではその中でも際立っていて、その後自分なりの定義が安定してきたものについて書きたいと思います。本当はシステム(System)も入れてSystem Story Senseで3つのSっていう感じなんですが、システムは仕事柄情報システムに限定している場面とそうでないところで話が分岐してしまいますし、そもそも「3つの○○」という言い回しが商売っ気過多な気がするので、ここではより実益の薄い2つに絞っています。

「(わかりやすい)物語としてしか理解できない」

物語として理解する、という言い回しを聞いたことがあるでしょうか。どれくらい一般的に普及している表現なのかはわかりませんが、私のまわりでは「たまに見かける」という感じです。最近、ちょっと頻度が増えているような気もします。ただ、使っている人達が同じ意味でこの言い回しを採用しているのかどうか、また聞き手が正しくその意図を汲み取れているのかどうか、という点については、毎回ちょっと不安になります。なんとなく「勧善懲悪」などの物語テンプレートやお決まりの展開のようなものが事前に存在し、それに当てはめる形で理解する。というようなニュアンスで捉えている人が多いのではないかと思います。本来は複雑なはずの現実を、物語の粒度まで抽象化し枝葉末節を省いて単純化された形で受け止める。また、その単純化には限られたパターンが存在する、といった感じでしょうか。この場合、物語とは本来あるべき姿よりもなにか単純なもの、とされています。

「物語が見えてこない」

一方で、これとはまったく逆方向の用例もあります。たとえばビジネスの場で何かを分析する際に、目の前に見えている単純な数字やデータを表面的になぞるのではなく、その背後の経緯などに思いを馳せつつ構造を理解することを「物語を読み解く」と言ってもそれほど違和感はないですし、それができない状態を「物語が見えてこない」と言うこともできそうです。別のジャンルの例だと、世代的にギリギリ間に合っていないのですが名作シューティングゲーム(シューティングゲーム STGは銃で撃ち合うような最近のバトルロイヤル的なゲームという意味ではなく、戦闘機の様な自キャラクタを操って敵機やそれが吐き出す銃弾を避けながらステージ最後のボスキャラを倒すような作りのゲームのことを意味していました)である『ゼビウス』はゲームプレイ中には全く表現されていない背景のストーリーや各敵キャラの設定を別途重厚に用意しファンに提供することで圧倒的な支持を集めたと聞きます。目の前に見えている単純化された表象の裏側に、豊かな文脈があることを感じさせる時にも「物語」という言葉は用いられる様です。ゲームの場合はこのストーリー展開とゲームプレイが独立して表現されることはよくあります。ステージの合間に「ストーリー展開」用のムービーシーンが挿入されることで、主人公の目的を理解させゲームプレイの意味を補足強化するわけです。『ゼビウス』の他にもゲームそのものには表現されていないバックストーリーが提供されるケースはあって、私の世代の場合はドラゴンクエストシリーズの副読本的な書籍としての「モンスター物語」「アイテム物語」などがありました。短編小説で「なぜスライムには色々な種類がいるのか」などが物語の形式で語られる趣向でした。いずれも、物語とは表面的に見えているもの以上の複雑な背景を想起させるもの、として扱われています。

物語は物事を単純にしているのか複雑にしているのか

基本的に、単純化と複雑化は相反する概念です。従って、物語には単純化の作用がある、と、物語には複雑化の作用がある、という主張は、少なくとも表面的には矛盾しています。もちろん、すぐに思い付くこの矛盾の解決法として、対象とする物事に依存する、というアイディアもあります。複雑過ぎるものは単純に、単純過ぎるものは複雑にするような中庸をもたらす作用なのかもしれません。例えば、10℃の水が、氷を溶かし、湯を冷ます様に。多様な要素が複雑に絡み合うカオスも、個別に切り取られ単純化された事実の列挙も人間の認知には馴染まないので、それを解釈しやすくした姿が物語である、というわけです。ある意味で、人間が物語としてしか理解しない、ではなく、人間が理解できるものが物語だけである、ということになるのかもしれません。

しかし、この結論は同語反復的であまり面白くない。私は、一般に物語と呼ばれるものについては前述の様な「物事の関係性の複雑差」の程度(あるいはちょうど良さ)以上にもう少し言えることがあるのではないかと思っています。それは、因果関係に対する決めつけ、です。

データ分析ブームもあって、昨今、因果関係と相関関係が別物である、ということはよく言われる様になってきたと思います。AとBの2つの事象があったとき、AがBを引き起こしているのであれば、AはBの原因であるとされ、AとBの間には因果関係が存在することになります。例えば、気温が高くなるとアイスクリームの売り上げが伸びる、については因果関係が認められているそうです。ある程度までは温度上昇にともなって売り上げが伸びている。しかし、アイスクリームの売り上げが高い年は水死者が多い、というデータに対しては因果関係は認められません。これは高い温度という共通の原因から引き出される傾向として同じタイミングで上昇しているだけなので、相関関係はあるとされますが、前者が後者を引き起こしているわけではないので因果関係ではありません。(厳密な話をし出すと、では因果関係とは本当にありえるものなのか、ということになりますがここでは割愛します)

2つの事象の間に因果関係があるのか。それはどの程度確固たるものなのか。見落としている他の要素からの影響は排除仕切れているのか、など、本来現実世界に生じている事象と他の事象との関係性は複雑であり、因果関係の有る無しを断定することは原理的に難しいことのはずです。この因果関係に対する疑いの目を完全に捨て去り、与えられた説明を事実として受け入れるのが、「物語」として認知するということだと思います。

小説などのフィクションにおいて、登場人物が抱く感情が何によって引き起こされたものであるのか、それがどのような行動を引き起こしているのか、などは著者が書いた描写が真となります。私たちが誰かを好きになったり嫌いになったりする時に、ある特定の出来事1つが決定的にその評価を規定してしまうということは稀です。多くの決定的ではない事象の群れが、その結論を支持する形になっていることが多いのではないでしょうか。(あるいは、そもそもそのような意味での「評価」などというものは固定的には存在しえないものかもしれません)。しかし、物語においては、何かをされたから嫌いになった、とか、その人の職業や出身地にはじめから好感を持っているという設定なので好きになった、というような単純な因果関係が(時にあからさまに)示され、著者によるその説明に疑いが差し挟まれることはありません。ある種の推理小説においては、疑う必要が生じることもありますが、それは例外と言ってよいでしょう。

以上の理由により、私は、物語を「因果関係についての疑念が放棄され鵜呑みにするが期待されている事象の連なり」と捉えています。

(長くなりすぎたのでセンスについては、次回に先延ばしします)

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