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娘の歯に祖父の思いを託す
私の口にはまだ乳歯が4本残っている。上に2本、下に2本だ。
そんな私の年齢は32歳。今年の3月、第一子である娘を出産した新米ママで、毎日慣れない育児に奮闘している。
自分の乳歯の存在を知ったのは大学生の頃。
教育学部だったので3回生になるまで必修の授業が他の学部よりも多かった。そのため、「オフの日(終日授業がない日)」を経験したのは3回生になってからだった。
美術系のコースだったので制作課題もあった。油絵の具やキャンバス、デザインの授業で使う光沢紙など、ものづくりには何かとお金が必要だった。ただでさえ授業を受けるだけでも忙しかったのだけど、制作に必要な材料費を捻出すべく、アルバイトも掛け持ちしていた。
今になって振り返ってみると、割と忙しい大学生活を送っていたようだ。
ある日、大学で授業を受けている時に歯に違和感を感じた。トイレに駆け込み、口を開けて目を凝らしながら奥歯を見た。暗くて見えにくかったが、なんとなく茶色くなっている部分があった。
虫歯だ!と思った。忙しい日々だったので、歯医者に行く時間をとても惜しく感じたのだけれど、虫歯が大きくなってから治療を受けると治療時の痛みに不安があったので、最寄り駅の近くにある歯医者さんに駆け込んだ。
「ここで治療するのが初めてのようなので、口の中のレントゲンを撮りますね。」
と言われ、奥歯でチップのようなものを噛むように指示あり、防護服のようなものを着せられてトイレの個室くらいの狭い部屋でレントゲンを撮られた。
そのレントゲン写真を治療の時に見せてもらえた。
「こことここね、乳歯なんだけど、下に永久歯がないのよ。だから、乳歯、大事にしないともし抜けても生えてこないからね。」
「え?え?」
とても混乱した。
あぁ、やっぱりここ虫歯になってるねぇ〜。と言われる覚悟はできていた。だけど、実際に伝えられたことは虫歯ではなくてはるか昔に抜けていると思っていた乳歯の存在だった。
20歳を迎えた自分の口の中に乳歯が残っていて、しかもその乳歯が抜けてしまったら、代わりに生えてくる永久歯が歯茎の中にいないなんて…!
とてもわかりづらい例えなのだけれど、昔の横スクロールのアクションゲームで例えるのならば、残機ゼロの状態でラスボスまで倒してください、と言われている気持ちになった。
この日は結局、小さい虫歯があったので、手ばやく削ってもらい、詰め物をしてもらった。
治療の後に、歯垢などを取ってもらい、今後虫歯になりにくいように、フッ素も塗ってもらった。
この歯垢の除去とフッ素の塗布は、女優の多部未華子さん似のきれいな歯科衛生士さんにしてもらえブラッシングの指導をしてもらった。
優しそうな雰囲気とは裏腹に、けっこう厳しい口調だった。ピリついた雰囲気を放っていてけっこう怖かった。
当時のスパルタ指導のおかげで、産前後ともに虫歯にならなかったので、この時の歯科衛生士さんにはずっと感謝している。
治療が終わった後、帰りの電車に乗り込む前に、ドラッグストアで歯間ブラシとフロスを購入した。
高齢と言われる頃までは乳歯たちを虫歯にしてはいけない、そんな気持ちがしっかり芽生えていた。
それに、虫歯の治療はいくつになってもきっと痛いから、極力受けたくはなかった。
口腔ケアの意識が高まった時に、ふと、母方の祖父のことを思い出した。
「じいちゃんはね、毎晩寝る前にね、子ども3人の歯磨きの仕上げ磨きをしてくれてたんよ。」
母がいつか言っていた。自分で磨いたあとにもう一度父親に磨かれるなんて、なんて煩わしいのだろう、と幼き日の私は思った。
優しく祖父のことを語ってくれた母の歯は、いつも綺麗に磨かれていた。笑うと綺麗な白色の前歯がお行儀良く並んでいた。
歯を磨く時はいつでも母から聞いた祖父の話を思い出す。寝る前の歯磨きは時間をかけて丁寧にやりたいから、湯船に浸かりながらのんびりと5分以上磨いている。
湯船に浸かりながら歯を磨くなんて…と、夫は最初は呆れていた。しかし、歯磨きの後に歯間ブラシやフロスを使ってせっせと手入れをしたり、定期的に歯医者に通い歯垢取りとフッ素塗布をしてもらったりと、歯の手入れに時間をお金をかける私の姿に影響されたのか、いつの間にか夫も定期的に近所の歯医者に通うようになっていた。
うれしい変化である。
自宅での歯間ブラシとフロスを使った手入れのおかげで、約10年ほど虫歯の治療をせずに済んでいる。4本の乳歯たちも健在だ。
ちなみに、同じ歯医者にずっと通っているのだけど、いつの間にか多部未華子さん似の歯科衛生士さんの姿を見なくなってしまった。寂しい気持ちになっている。
また会えた時には心の底から感謝を伝えたい。
私の口腔ケアの恩師である母方の祖父が、一昨年の梅雨に亡くなった。
享年89歳。私の親族の中では比較的長生きだった。
お通夜の時に、母に聞かされて驚いたことだが、祖父の口には永久歯が上下に何本も残っていたそうだ。
肺が弱かったため、晩年は入院ばかりであったが、入院生活の中であっても、祖父は朝、昼、晩、しっかりと自分の歯を磨いていたのだろう。
今年の9月。生後6ヶ月になる娘の下の歯茎から小さな歯な生え始めた。
小児科の先生にはガーゼで生えてきた歯や歯茎を軽く拭いてあげるだけで良いと言われたが、ドラッグストアで歯が生え始めた頃から使える歯ブラシや歯磨き粉を見つけたので買って使ってみている。
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真ん中がジェル状の歯磨き液
1番右が仕上げ用の歯ブラシ
磨くというよりは、歯磨きを本格的に始めた時に歯ブラシを嫌がらないように口の中にブラシを入れる練習をするものらしい。
初めての歯磨きはブラシを嫌がるかと心配していたけれど、本人は歯固めか何かと思って喜んで口に入れて夢中になって噛み始める。
満足いくまで噛ませたら、キシリトールが入った歯磨き液を塗布した歯ブラシでブラッシングをしてあげる。これが毎晩のルーティンである。
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歯は一生モノ。歯を大切にしていれば、いくつになっても食べものはきっと美味しい。
「自分の歯じゃないと食べ物がまずい」と、総入れ歯をしていた父方の祖母が言っていた。
離乳食も進んだ娘。娘は私たち夫婦に似てよく食べる。
娘に伝えたい。いくつになっても、自分の好物を「旨い!」と頬張りたければしっかり歯を手入れしなさい、と。
自分の生え替わっていない乳歯の存在が、私の口腔ケアへの意識を高めるきっかけになった。だけれど、私は母のことも祖父のことも大好きだったので、ひょっとしたら乳歯がなくても、ちゃんと歯の手入れはしたのかも知れない。
ただ、嬉しく思うことは、祖父、母と共に、「歯は大切なもの」であるという価値観を世代を超えて共有できていることである。
自分が、歯を大切にする祖父と母のもとに生まれて本当によかった。
祖父と母にに感謝しながら、今日も洗面台の前で歯間ブラシとフロスで手入れに勤しむ。
私も、祖父のように晩年まで歯の手入れを頑張って、おばあちゃんになったら孫に「おばあちゃん、まだ自分の歯がこんなに残ってるんよ」とニッと口を開けて自慢してみたい。
乳歯たちよ、まだまだこれからも頼みますよ。