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失うことで得るもの~NORA松村さんとの対話&ボストン振り返り~

ボストンに行く前に、2か月に1回程度で行っている寄付者・会員のみなさまとの定例の会を開催しました。寄付者の皆さんは、ご寄付を託してくださり、一緒に活動をしている仲間です。
いつもはスタッフ研修の一部を共有したり、近況の報告をしたりとその都度内容を考えて、皆さんからフィードバックをもらっています。いつもこじんまりと少人数ですが、常にいろんな発見があり大好きな会の一つです。今回はご提案もあり、新しい試みでゲストをお呼びして「勉強会」を開催しました。

寄付者のお一人から、環境の分野等普段直接連携や協働をしていない団体の方のお話を聞く、勉強会を開催することで、更に活動の在り方を深められるのではという提案をもらったからです。

まさにその当時、こまちぷらすがスタッフ研修で「自分たちは木を増やす活動ではなく土をつくる活動をしている」という今後の展開方向について考えを深めたり、「土の中の循環と関係性、多様性」「菌根菌のような動きをする」等と自然に詳しいスタッフに更にこまちぷらすの活動と土の中の生物多様性を照らし合わせながら、深めてもらう勉強会をしたばかりでした。

理事でもありファンドレイザーの佐藤と誰を呼びたいか話し合い、今最も対話したい人としてNPO法人よこはま里山研究所NORAの松村正治さんの名前で一致しました。

そして迎えた当日。1時間のお話が数分に感じられました。咀嚼するのに時間がかかりすぎてしまい今になってしまいましたが、そしてボストン1か月研修が間にはさまりましたが、帰ってきて改めて思い返すとボストンで得てきたものと重なるものがありましたので忘れる前に二つをかけあわせて書きます。

その会のときにお話ししてくださった内容一部を、NORA松村さんがブログで記してくれました。

つまり、何かを得ようとするときには、何かを手放している。
何かを手放さないと、何かを得られない。
もちろん、手放すもの以上に得られるものが大きいから、既存の便利なツールを使うのだが、そのときに、何を失っているのかをよく考えておきたい。
そして、失ったことの痛みや悲しみを覚えておきたい。
そのような困難なプロセスをたどることが大事だと考えている。
何のために?
私の場合、それはよい仲間とよく生きるために、である。
これまで約半世紀を生きてきた自身の経験から感じているのは、痛みや悲しみの経験が私を私らしくしているし、痛みや悲しみをともに経験した仲間が、私を支えてくれているということだ。

松村さんのブログより:https://nora-yokohama.org/reading/?p=7786&fbclid=IwAR3EkzcULmqczWzRCZBDgM8v2YozBsPuFpsZurZ4Kr0hkaPbVhbW21qxZ0A

WINWINという言葉はあるけれども、必ずWINにはLOSE(失う)が伴う。選択するということは、何かを選ぶことでもあり何かを選ばないということでもある。失ったこと選ばなかったことによって生まれている、誰かの痛みを忘れてはならない。選択することで誰かがとっても嬉しいことにつながったり、誰かがとっても悲しい思いをすることにつながったりする。誰もが必ずハッピーになる選択というのはなかなかない。
何かを選ばなかったことで悲しかった、、という声が頭から離れないこともある、けどそれを簡単に忘れてはならないし「乗り越える」というものでもない。そういうことが、WINWINという言葉のときにどこかないことにされてしまうことへの違和感を、松村さんの言葉を聞きながら整理されていきました。

あとは、直線でWINとLOSEが対比で並んでいるわけではないということですね。

WINを求めるのをやめてLOSEを自分で受け入れたときに、その人の中では何かが得られることがある。

松村さんのブログより:https://nora-yokohama.org/reading/?p=7786&fbclid=IwAR3EkzcULmqczWzRCZBDgM8v2YozBsPuFpsZurZ4Kr0hkaPbVhbW21qxZ0A

人間界の人間同士のWINとWINを追求した結果、自分が見えている範囲のWINとWINだけを見て、本当にその結果がよいことなのだろうか。そのWINの価値観も時が経てば変わることもあるし、自分自身の捉え、立場、周りとの関係性が変われば変わることもある。そもそも自分がWINとLOSEと思っている価値観が、自分が生きてきた小さな世界で刷り込まれてきた無意識の中で生まれたもので、先入観と偏見に満ち溢れていたものだった、なんてこともありうる。バブソン大学で見た「ClassDivided」の授業のように、その構造を客観視することは、なかなかできない。松村さんが書くように、そもそもその人間の社会だけで見ていること、もおかしな話なのかもしれない。

また、ボストンにいたときに、「底つき体験をしっかりしないと、その後の回復についての苦労とか苦しみを、他人のせいに感じてしまう」という話も聞かせてもらったことがありました。回復の痛みは自分で選んだと思えてないともちこたえられなかったりする、と。この言葉はとても心に響き日本に帰ってきてからも毎日いろんな場面で思い出します。

WINがよくてLOSEが悪い、でもなく、強くなることがよくて強くないことが悪い、でもなく、「底つき回復する力を得る」というような、もう少し入り混じったような感じが実際の人の様子なのでしょう。いろんなNPOや活動のなかで、協働のなかで、整理する軸としてWINWINは使うけれども、あくまでもそれは状況整理の一つ。そのときにその立体的な人間の状態と、失い痛みがある側面があることと、その失いつつ得るものがあること、そして時間軸:誰もが何かしらの回復過程にいるという感覚を忘れてはならないことをリマインドしていただいた時間でした。

松村さんの長年の活動から、得たものを教えていただいたことへの心からの感謝を申し上げます。NORAの活動のページ、NORAとはの説明はこちらから