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芸術祭を歩いて気づいた。自己肯定感の低いやつは芸術祭に行け。

この秋、縁あって「大地の芸術祭」と「北アルプス国際芸術祭」に立て続けに行くことができました。

美術館でアートを見る緊張感のある時間も好きですが、地方の町や自然の中で体験するアートはとても新鮮で、風や匂いや気候と相まって、2度と同じものは見られないだろうなという特別な感慨があります。

北アルプス国際芸術祭『ささやきは嵐の目のなかに』
(ケイトリン・RC・ブラウン&ウェイン・ギャレット)

芸術祭に足を運ぶと毎回思うのは、そもそも芸術祭がなければ足を運ぶこともなかったであろう地域に、芸術祭が開催されたことで多くの人が行くことになる価値についてです。 地方の温泉宿やリゾートホテルにも近い効果はあるのですが、アートはもっと剥き出しのままその土地を見せてくれるし、会期が終われば基本的には撤去するという柔軟性は、宿業にはできない技なのです。開催自体に賛否があることは承知の上で、また、芸術祭の効能効果はそれだけじゃないことも承知の上で、やっぱり最大の意義はそこでしょ、と思います。

大地の芸術祭『赤倉の学堂』
(ナウィン・ラワンチャイクン+ナウィンプロダクション)

今回、越後妻有や北アルプスと呼ばれる地域を歩いて改めて発見があったのは、作品を通すことで、日本ならではの自然や田舎町の景色が違う見え方をすることです。もう少し正確にいうと、違う見え方をすることの重要性について発見したという感じでしょうか。

北アルプス国際芸術祭『水をあそぶ「光の劇場」』(木村崇人)

越後妻有や北アルプスも、言ってみれば日本に生まれ育っていれば見慣れた山間部の風景であり、まして地元に人にとっては今さら何を…という景色かもしれません。ところがそこに、アーティストがたったひとつ椅子を置いたり、窓枠を切り取っただけで、不意に美しさが際立つ、心がざわつくような光景に出会うことがあります。もしくは、その土地の人々の間では当たり前のように繋いできた昔ながらの生活様式や名もなき人々の歴史を、後世に残すべきとても大事なものだと示してもらえたりもするのです。

大地の芸術祭『たくさんの失われた窓のために』(内海昭子)

そんな体験を1日中していると、ふと自分でも、作品でもなんでもない場所でなんとも言えない美しさを感じることがあります。川の流れ、古い建物、収穫の終わった畑など、今日このタイミングでなければスルーしていたかもしれない景色にどうにも惹きつけられるのです。普段よりも琴線に触れるものを見つけようとする感度が上がっているというか、湧き上がる感情を受け入れるためのコンディションが整うような感覚があります。

奇しくも、北アルプス芸術祭に向かう車の中で聞いていたビジネス系Youtube番組で、優れた大人に求められる能力として”視点取得能力”という概念があることを知りました。自己理解力、他者理解力、感情適応能力、冷静な問題解決能力など、大人が複雑な課題に対処するにあたって必要とされるスキルを総合する概念として”視点取得能力”を獲得することが重要なのだと。言い換えれば「人間としての器」です。

以前から、「自己肯定感を高めたい」というお悩みを聞くたびに、「自己客観視力を鍛えろ」とか「メタ認知を身につけろ」みたいなことを答えていたのですが、その漠然とした私の見解を肯定しつつ、もっとすっきりと定義づけてくれたような気がします。

自己肯定感とは、多くの人はまるで本能的に湧き上がってくるインシュリンのようなものと捉えているような気がしますが、実際にはあくまでもその人の思考のクセであって、良くも悪くも「考え方次第」だと思います。しかも多くの人が、自分の自己肯定感の低さを「子供の頃に怒られて育ったから」など、親や教師の影響と分析していて、要するに「他人」の影響なのです。つまり自己肯定感とは「生まれ持って自分で自分をどう感じるか」ではなく「他人が自分をどう評価したかの集合体」で形成されるというイメージです。(心理学の専門知識があるわけではないので、あくまでも私見です。)それならば、後天的に大人になってからも形成し直すことは可能なのではないか、というのが私の持論です。

そのためには、他の人が自分をどう見るか、世の中全体の中で自分はどれくらいの場所にいて、どういう存在であるかを客観的に見てみることが有効なんじゃないかと思います。少なくとも私の周囲にいるような人たちは、社会全体で見れば十分に恵まれているし、十分な教育を受けているし、ちゃんと人の役に立てています。大げさに言えば、日本に生まれた時点で世界トップレベルに幸運なんじゃないかとさえ思うほど。反対に、例えば他人にイヤなことをされたときにも、「向こうにも何か事情があったのかもしれない」「不安の裏返しかもしれない」のような視点の切り替えができるだけで、穏やかな気持ちでいられるし、学びや笑い話に変えることができます。

視点を変えるトレーニングをするために、歴史を学ぶ、ロジカルシンキングを学ぶというのは有効そうだと思っていたのですが、今回ふたつの芸術祭を巡ってみて、アートというのも強制的に視点を変えさせてくれて、その上でいろんな考え方を想起させてくれるという力があると気づきました。美術館に行くことにもその効果はあると思うのですが、ホワイトキューブの中で作品に集中できる環境よりも、屋外や地域で行う芸術祭のほうが、見慣れている風景だったり情報量が多い環境という前提条件の上にアート作品が挿入されるという構造上、その視点の複雑さを提供しやす、また発見に意外性があるという利点があるように思います。

もちろん、そもそも穏やかな自然の中をたくさん歩き、澄んだ空気を吸って、地域の美味しいものを食べるということ自体が極めて健全なもので、自ずと頭はクリアになるし、考え方がポジティブになるという効果も期待できます。ほら、やっぱりいいことしかないじゃないか。

自己肯定感の低いやつは芸術祭に行け。

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