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何が正しいかなんて、わからない。

祝日、カフェに居座りなんとなく文章を書き始めた私。浮かんできた言葉を文章に書き起こしているうちに、ある人にとっては正解であることも、他の誰かにとっては正解ではないこともあるなぁと思い、そのことについて書いてみました。

【"taker"になるために文章を書くわけではない】

入試では5教科の点数を下げるほどに苦手だった国語。あれだけ国語が嫌いだった私が、あるきっかけからライターをやることになり、文章を書くようになりました。文章で表現する面白さに目覚めてからは、下手くそながらも自分の言いたいことを、適切かつ印象的な形で読み手に伝えるにはどうしたら良いのかということを考えるようになりました。あれやこれや綺麗な言葉を探して「ウケそうな」表現を探してみるものの、そんな自分が嫌になることもあります。結局は思いがけない本音の一言がバズってしまったり、泣きながら書き殴った文章のほうがインパクトがあったりします。小手先の技術なんて大したことはなく、テキストでも何か伝わるものがあるのだなぁと感じることがあります。

文章を書く場面といえば、コラムなどの依頼を受けた時以外ではSNSが多いのですが、ただ「いいね」の数を稼ぐためのセンセーショナルでそれっぽい言葉は、個人的には安っぽく見えてしまいます。お互いに「いいね」を付け合うことを前提とした戦略的な関係性を築くことによって「いいね」の数を増やしたり、繋がりを増やすことが、影響力を高めるためには重要だと説いている人もいます。お互いの利益のために、心から同意しない文章に対しても「いいね」をつけることになったり、「あなたを支持しています」という趣旨のリプライを半ば強制的に書くことになりそうで、私は気持ち悪く感じます。これは"take"前提の"give"による関係性であり、私はそのような結びつきは結局浅はかで弱いものだと思っています。最終的なベクトルは全て"giver"である自分自身に向かっていて、将来的に相手から"take"しようとしているだけなんじゃないかと、意図が透けて見えてしまい、"giver"ではなく"taker"なのだと気づきます。そんな人の周りからはそっと人が離れていくことになると思っています。皆さんはどう思いますか?

【「いいね」稼ぎはZ世代にとってはダサいもの】

そこまでして「いいね」が欲しいという人がいるのも事実。しかしZ世代は「いいね」の数自体に興味がないようです。私はX世代(Generation X:1965-1980年頃の生まれ)にあたりますが、Z世代(Generation Z:1995 年以降の生まれ)は「いいね」の数を争う世界には興味がないようです。彼らはいかに「イケてる情報」にリーチし、早く「いいね」をつけるかという情報感度が重要らしいです。Z世代にとっては、精神的な充実をアピールすることが何よりもマウンティングだと感じているという記事を、最近読みました。

バブル世代の派手な消費スタイルを実際に目撃しているX世代にとっては、人よりも高級なものを持ちステイタスを上げることがマウンティングであり、SNSで言えばより多くの「いいね」の数を稼ぐことが重要でした。Z世代にとって、また今を生きる私たちにっとっては、そのような価値観はどうなんでしょうか。「いいね」稼ぎに躍起になってSNSに張り付き疲弊してしまった人もいるのではないでしょうか。また同じ「SNS疲れ」という過ちを繰り返すのはダサい気もします。X世代にとって魅力的だったものはZ世代にとっては魅力的なものでもなんでもなく、だたダサいものになっているような気がします。

【人気に騙されず、本質を見極めたい】

このようなZ世代のSNSに対するスタンスは、「人気に騙されず、本質を見極めたい」という気持ちの現れなんじゃないかと思うのです。X世代である私でもこの気持ちはとてもよくわかります。話が少し変わりますが、例えば100万回以上再生されているキャリア系ユーチューバーがいます。その人が言っていることは決して真実とは思えず、むしろマイナスの影響を与える可能性すらあると思いました。詳しい内容はここでは伏せますが、「キャリアコンサルタント」という国家資格は必要ないという趣旨のことを、センセーショナルにそれっぽく語ることで、人気を獲得しているようにも思えました。私は「キャリアコンサルタント」という資格を持っている人が、一人でも多く社会で機能することが必要だと考えているので、こんなにも断言して必要ないと語られることに、とても違和感を感じてしまったのです。

私は社会人経験において、上司に恵まれなかったと感じています。出会った上司はパワハラ、モラハラ、ワンマン気質で、人間的にどうしても尊敬できない人ばかりでした。部下が上司を選べないことなんて当たり前ですし、働くとはそういうことだと思っていました。でも本当にわかってくれる上司もいるのかもしれないと感じ始めたのは最近のことで、上司が変われば驚くほど働きやすさや働きがいは変わるものだということを実感しました。私は20年以上の長い間、社会人として働くことに希望を持てずにいました。そんな中、キャリアコンサルタントの資格を取り、キャリアについて真剣に考え続けたことが今の私を支えているし、キャリアコンサルタントがいかに無用な資格だったとしても、そこで学んだことにより、今仕事を続けられています。数々の理不尽に対峙してきた私から言わせれば、キャリアコンサルタントの資格は必要だと思います。センセーショナルに語る人気ユーチューバーに左右されることなく、本質を見極めたいと私個人は思っています。

【世の中は報われない努力だらけだ】

「報われない努力」これはフィギュアスケートの羽生結弦選手が語っていましたが、人生のほとんどはこの「報われない努力」ばかりだと思います。報われることを期待して努力しても、結果は思い通りには行きません。見返りを求めている時点で甘えているのかもしれません。そして報われないとわかっていても、信じるべき何かのために努力し続けることで、見えてくるものもあります。私の努力のレベルなど、羽生選手には到底及ばないものですが、日常のさまざまなシーンに、報われない努力が存在していることはわかります。

最近私は、個人的な趣味と仕事の両方の側面からインターネットライブ配信を始めました。なぜライブ配信をするのか?についてあまり深く考えることなく興味本位で始めたのですが、何かしら発信することに意義があると思ってやっているので、視聴者ゼロ人は恐怖です。傷つくし、寂しい。誰も視聴してくれなかったらどうしよう…と思うと、それなりに不安です。報われない努力かもしれないけど、自分で決めたことだから頑張るのですが…。

【発信方法を使い分けて表現する】

発信手段としては映像、音声、テキストの大きく3種類がありますが、映像で伝えるべきこと、音声で伝えるべきこと、テキストで伝えるべきことがあります。TwitterやLinkedIn、Facebookなどの投稿は主にテキストで伝えます。テキストは読者に刺さるかどうかは別にして、一方的に伝えたいことを伝えたいように表現することができます。音声は声のトーンが加わり、その場で表現を思いつきながら話すので、ごまかしは効きませんが顔の表情は隠すことができます。映像、特にその中でもライブ配信となれば、もうありのままを伝えるしかありません。ごまかしの効かない一発勝負の中にある失敗や驚き、人柄やクセなどが人間らしさを表現し、良くも悪くもリアルに伝わります。TV離れが進んだように、作り込まれたコンテンツや予定調和な内容はもはや誰も見たくありません。この無防備なコミュニケーションの方がリアルです。

【勇気を持って発信しよう】

自分の頭の中をどう表現して何に乗せ、誰に届けるのか。適切な方法で適切に伝える必要があります。特にオンラインでのコミュニケーションが主流になってくると、表現の仕方を間違えると間違って伝わります。実りある関係性や信頼を得るには、オンラインでの表現方法が重要になっていると感じます。オンラインで自分を適切に表現できることが、一つの強力なスキルになるのではないかと思う一方で、"taker"になってしまったり、誤った伝わり方をする方法で発信してしまうと、信頼を失う結果になってしまいます。伝える相手によっても受け取り方が変わり、よかれと思ってやったことが裏目に出ることすらあります。それでも勇気を持って発信しなければ、自分の頭の中は伝わりません。そして人気であること=優れていること、ましてや正しいことではありません。正しいことを発信する必要はない。何が正しかなんて誰にもわからない。

報われない努力に終わるかもしれないけれど、こんなふうに自分を正当化して、私は今日も身の丈で発信しています!

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