見出し画像

私がLinkedInで発信するワケ -リベンジの決意-

現在も続いている新型コロナウイルスの脅威。じわじわと感染の恐怖が自分事として感じられるようになり、今はあらゆる労働者の雇用が危機にさらされる状況となりました。 キャリアコンサルタントとして、転職を支援している立場ではありますが、私自身も労働者の一人であることに変わりありません。その点においては、例外なく自分自身も雇用危機に直面しているといえるでしょう。

恐らくコロナは私たちの「働く」を大きく変えていきます。過去に疫病が流行り、そのたびに人類は危機に直面してきましたが、まさか私たちが生きているうちに、それを経験するとは考えていなかったのではないでしょうか。これを機に「そのうち変わるでしょ」と考えられていたパラダイムシフトが、人々の生活にも精神面にも起こります。恐らく危機の中で、人は自分の生き方を振り返り、確認し、これからの不確定な世の中を「どう生きたいか」にフォーカスしていくのでしょう。

他人の転職支援をしてきた私ですが、今回ばかりは自分自身も当事者であり、「どう生きたいか」を考える機会ではないかと感じました。そして自分の人生を振り返り、改めて「私はなぜLinkedInで発信するのか」について考えてみました。

これは、私の人生の備忘録。

いつか、つまづいた時に、コロナの中考えていたことを振り返るためのメモです。

子ども時代から振り返ってみます。私はどんな人間だったかな?

小さい頃はドラえもんが大好きで、スカートも靴もドラえもんがいっぱい。小学校では、クラスで集団いじめをする子たちが許せなかった。正義感の強い女の子。その一方、クラス全体を冷めた目で、はたから見ている内気でおとなしい子だった。

中学校では、部活でテニスを始める。真っ黒に日焼けしたショートカットの活発な子。市内大会で準優勝すると、調子に乗り始める。このころから自分に自信を持ち始めた。

高校生、市内の公立の進学校に進む。田舎の進学校で硬式テニス部に入り、毎日テニスに明け暮れる。練習試合では女子の相手では物足りなくなり、男子の練習試合に参加するようになる。やがて男子にも勝つようになる。市内の女子に敵なし。しかし大学受験では、テニスざんまいで勉強についていけず、浪人する。初めての挫折。

大学生。京都で一人暮らし。自由を謳歌する。英文科ではみんな英語ができた。私は…たぶんセンスがない。きっと情熱もない。英語の論文を書くのは好きだったけど、英会話はまるでダメ。在学中は、たくさんのアルバイトを経験する。中でもアトラクションのお姉さんはハマった。レースの実況をしたり、着ぐるみやカツラをつけてお客さんを楽しませることに夢中になる。就職は氷河期の2000年。四大卒の女子にはほとんど求人がなく、女子向けの一般職には全く興味がわかない。製造業の父の影響もあり、メーカーを受けるがエントリシートすら受け付けてくれない。小売り、流通、外食はかろうじて選考を進めてくれた。その中で、抜群の商品力を持つセブン-イレブンに感動し、入社することになる。

社会人、ブラック労働に明け暮れる。心身が壊れて、休職する羽目になる。その時出会ったカウンセラーに「あなたはカウンセラーに向いている」言われ、その気になる。その言葉を信じ、リクルートキャリアにキャリアアドバイザーとして転職する。そして社内結婚。転勤族の夫ともに土地を転々とする。そんな中、家庭を大切にしたい私は、大好きなキャリアアドバイザーの職を手放した。

そして、7年の専業主婦生活。アクティブに動くタイプの私には人生で一番つらい時期。私は、夫の転勤先の静岡の田舎で子どもたちと暮らしながら「あぁ、私の人生はここまでが限界だったんだろうな」と絶望的になる。

そんな時「働き方改革」という言葉に出会う。「女性はキャリアを継続すべきだ」「残業と転勤が前提の働き方を変えるべきだ」という論調が、私に一筋の光を与える。よし復活してやろう。ここから、リベンジが始まる。

この後、私は夫の東京転勤を機に、リベンジを果たしていきます。

「私はなぜLinkedInで発信するのか」この後も続きます。

▼続きはこちら。
私がLinkedIn で発信するワケ -SNS 活動の始まり-

#ビジネス #LinkedIn #変わろうよ日本

★少しでも共感してくださった方、
あなたの「スキ」をポチッとお願いいたします!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?