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分かりたい、という欲望

今日もこの星のどこかで生きている愛しいあなた。
今日もお越しいただきありがとうございます。

私の中にある「分かりたい」という欲望について、
深く観察する時が来たみたい。

私は「分かりたい」が強めだと思う。
これが、人に対して働く時、
共鳴したい、分かち合いたい、喜びを共にしたい、
っていう気持ちがある。
純粋に私は表現して、相手との化学反応を楽しんでいる。
そんな時は、面白い化学反応が起きて、
雪だるま式にブワッ〜っと拡大して、
深い癒しや悦びを感じる。
とってもハッピー。元気がでちゃう。

でも、ハッピーな結果にならない時があって、
この差はなんだろう?って考えてた。

そしてわかったことは、
ハッピーにならないときは、
「コントロール」が潜んでる、ということ。

ハッピーにならない時、
なぜ私は分かろうとするのか?を問うたときに、
期待してることがあったということに気がついた。

そこに純粋な楽しみはなく、不から始まってる。
不足感があるから、
褒めてほしいとか、評価してほしいとか、
認めてほしいとか、労ってほしいとか、
(大丈夫という言葉とか、
愛してるという言葉とか、
すごいねという言葉とか、
ありがとうという言葉とか)
特定の反応(や言葉)を相手から引き出そうとする、
そんな「コントロール」が潜んでいる。

つまり
相手の考えや感情、状況を知ることで、
今自分に足りないものを満たそう、
状況を変えよう、管理しよう、
そういう不純な動機が隠れていたのね。

ハッピーなパターンの、
喜びを分かち合いたい、共有共鳴したい、
楽しみたい、っていう動機じゃなくて、

自分や相手を、
変えよう、変えなきゃいけない、
こんなはずじゃない、そんな思いがあるんだよね。
だから「分かろう」とする。
(もはや「分かろう」ではないかもしれない。)

よく言う、不足から、というやつでもあるし、
どうしてやろう、こうしてやろう、という、
それによって、今を変えてやろう、という、
コントロールが入ってる。

これが、ものすごくしんどいことだなって、
気がついたんだよね。
私を重くするもの。

じゃあなぜ、
コントロールしようとしてしまうのか?というと、
そうしないと不安だから、が答え。

自分が把握して、分かって、
コントロールしないといけない、と思ってた。
それが可能だと思ってる自分もいたわけだ。
私がやらなきゃ、みたいな、
変な責任感みたいなものもあった。

でもそんなはずないやん、と。
これは間違った思い込みだと気づいた。

私が自分以外を
管理する必要がないし、
そもそもコントロールできないし、
真に「分かる」こともできない。
分かったところで、
自分の安心がそれに依存していれば
本当の安心はない。
私がほしい安心は、そういうのじゃない。

ということを再確認し、
コントロールと、
そのために分かろうとすることを、
手放すことにした。
これでまた軽くなるだろうと思う。

自分が純粋に、分かりたい!と思うことは
自然と分かるだろう。
今わからないことは、
今わからなくてもいいこと。
必要なら、そのうちわかる。
そういうことにする。

そうやって「今」自分を安心させること、
いつでもそこから始めよう。
「今」に集中しよう。
昨日は、そう誓った今年最後の満月でした。

今日も最後まで読んでくださり
ありがとうございました。

いつもありがとうありがとうありがとう!

ではまたね〜(*´▽`人)♡

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