見出し画像

もうひとつのその7 真実

 静かな心で、ただこの陀羅尼呪の単語の並びに意識を集中する。法華経解説本と文献中の意訳からその流れをイメージし、再構成を試みる。

するとふっと心によみがえってくるものがあった。今回の、条件のない愛を感じるに至る内観の過程である。それをもとに繋がりを持たせると、おぼろげながら全体像が浮かび上がってきた。
‘’体験してきたことが、陀羅尼の意訳の一部に必要なものだと感じてはいたけど……それが全てだったのか。‘’
この繋がった言葉で表わされているのは、悟りを開いた人のことではない。心を見つめ成長していく、その過程にある人自身のこと……時も場所も関係のないことだった。

どちらの陀羅尼呪も、込められた思いは同じ……。違いはその内容で、先の方は捉え方の転換と自分の中での心の調和を主に、今回の方は自分以外の存在との調和の方法を主に語っている。

これらの陀羅尼呪の単語一つ一つが、時間をかけて自分自身の中から得た宝そのものだった。この人と私の心の中に、やっぱり同じものがあったんだ。

(これって……「真実」や……。)

子供の頃からずっと思ってきた。
‘’真実ってどこにあるんだろう。‘’
と。
周りの人たちの言うことや、学校で習うこと、小さな世界の中に何一つ真実と思うものがない。
自分にとって‘’真実‘’とは、今だけ言えることじゃない。ここでだけ言えることじゃない。いつでもどこでも誰にとっても言えること。大きい小さい、多い少ない、優れている劣っている……そんな‘’全ての相対性を取り除いたものだ‘’と思っていた。
そしてその基準を常に持ち、それに沿うものだけを真実の欠片として心に受け入れる。
何を見ても誰と会っても、心の奥底でそれを探していた。

陀羅尼呪は、いつも母が実家で唱えていたお経。子供の私には何を言っているのかさっぱりわからない。けれどその不思議な音は心に残っていた。

そして一人目の子が、お稚児参りに参加した際に法華経の子供用漫画本の第一巻を貰ってきた。それを何気なく読んだ後、残りを全巻購入。
一気に読み終えて、どうしても気になったのが二つの陀羅尼呪だった。

(ここに何がある?)

子育ての真っ最中だった。嵐の中だった。目の前の生活に‘’真実‘’が見えない。それまでに集めた欠片は、何の形にもなっていないし役に立たない。
そしてこの言葉を何処からか聞く。
‘’意訳してはならない。‘’
と。
その言葉が引き金となったんだ。

(絶対してやる……。)

そうしてここまでやってきた。これが探し求めてきたものだった。
陀羅尼呪の力を借りて、自分の中から欠片たちと共に真実が形を作っていく。

けれどね。
今から思えば当然……なんだけれど。
自分が定義した‘’真実‘’の、除くべき‘’相対性‘’の対象に、自分の価値観・観念全体があったとは予想だにしていなかった__。