「向き不向きより前向きに」という言葉の響きが変わった話。〜ジョハリの窓〜
大学1年生の頃、所属していた学生団体の先輩が言っていた言葉。
「向き不向きより前向きに」
音のリズムも、優しい響きも、内容も、すごく素敵だな。と。
座右の銘の一つとして10年以上経った今でも大事にしている言葉です。
向き不向きなんかを気にするより、なんでもやってみよう!という精神で、海外にとび出してみたり、国家資格に挑んでみたり、人生の岐路的な場面ではよく思い出す言葉。
でも、最近、この言葉にほんの少し、違和感を持つようになっています。
「向き不向きって、結構大事だよね。」
と。
向いていると思うことは、継続していけばいいし、不向きだと思うことには余計なエネルギーを注ぎすぎず、もっと安心安全に、快適に、取り組めることに集中すればいい。
もちろん、やり始める前から諦めて「自分には向いていない」と思い込んでしまうのはもったいない。
でも、「不向きかも」と思った段階で方向転換したり、「向いていると思う」ことかつ、他者からみても「向いていると思われる」ことを極めていくのって、幸せになる一歩な気がするんです。
「向き不向き」ってなんなのか
ここで、慎重にならなければいけないのは、「向き不向き」は自分だけでも判断しづらいし、当然他人が一方的に判断することでもない、ということ。
自分が「向いている」と思っていても、客観的にみると意外とそうでもないことや、自分が「向いていない」と思っていても、他人からみたらそれは向いていることなのでは?と思うことが少なからずあります。
向き不向きという言葉自体が、主観的な印象をもつので、自分の思い込みだけで判断してしまうのはもったいない。
だからと言って、他人について、これは不向きだ、と判断して、一方的に成長の機会損失…なんていうのももったいない。逆に、これが向いている、と一方的に押し付けるのも違う。
向き不向きについて考えるときには、自分のことをどれだけわかっているか、また、他者からのフィードバックが適切にされている状態であるか、客観的にとらえられると良いですね。
ジョハリの窓的な話になってきました・・・
Wikipediaから引用しつつ、図も描いてみました↓
ジョハリの窓(ジョハリのまど、英語: Johari window)とは
自分をどのように公開ないし隠蔽するかという、
コミュニケーションにおける自己の公開とコミュニケーションの円滑な進め方を考えるために
提案された考え方。
つまり、適切な自己分析&自己開示、そして他者からのフィードバックを柔軟に受け入れ、挑戦&成長していくこと。人との関わりの中で、境界線が動き、「開放の窓」が広がっていく。その過程にある”気づき”を大事にする。
こうしたコミュニケーションの環境が整っていると、向き不向きを判断して、適材適所で自分(または他者)の持つ力が最大限発揮できるように思います。
自分も周囲も「快」の状態で過ごせることが「向いていること」へのヒントになるような気もします。コミュニケーションをケチらないように、目の前の人としっかり向き合えているかな?
「基本的には前向きに。向き不向きも大切に」
ちょっと脱線気味でしたが、要するに、基本姿勢は前向き。
他者とのコミュニケーションを通じて、向き不向きの気づきも得ながら、「快」の状態で生活できるようにしていく。
そんな風に感じるようになった、座右の銘の一つ、のお話でした。
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