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「自己責任」という言葉は強く生きるためにあると思っていた、けれど。
表紙から悲しみが溢れており、読む勇気がなかなか出なかったけれど、読みはじめると止まらなかった『シングルマザー、その後』
読了するまで何度も立ち止まり、いろんなことを考えたり、いろんなことに腹が立ったりした一冊だった。ハッキリ思ったのは、子どもを産み、責任をもって育てようとすることで、母親がひとり孤独に、貧困に陥ってしまう現状は間違ってる、ということだ。
とはいえこの本を読むまで、「そんなもんか」と思っていた自分もいた。政治批判をするより自分にできることを探したいという気持ちもある。だけどすぐ近くの、似たような国だと思っていた韓国でさえ支援が進んでいることや、「子育ての何がしんどいの?」と言えるほど環境が整った国が実在すること、その国では生活保護を受けている人の子どもが当たり前に弁護士を目指せることを知り、改めて日本が特別やってない国なのだと思った。そりゃ子どもの未来にお金をかけない国に、子どもは増えない。
もうひとつ気付いたことがある。
自己責任という言葉の無責任さだ。
わたしは長らく「自己責任」という言葉は強く生きるためにあるのだと思っていたし、そうじゃないと生きていけないじゃないかとも思っていた。だけどこの本で考えが大きく変わった。自己責任という言葉は、政治家が責められないためにあるのかもしれないと思った。そして自己責任論で他者を追い詰めることは、未来の自分や息子を追い詰めることになるかもしれないとも思った。
わたしがこれまで自己責任でやってこれたのは、やってこれた気になっているのは、少なくとも不慮の事故に遭ったことがないからだし、夫が暴力をふるう人じゃなかったからだし、虐待しない親のもとに生まれたからだ。それは自分が頑張ったわけでも強いわけでもなく、運がよかっただけである。
自己責任論を肯定することは、一部の人に対して責任をとっていない国の姿勢を肯定することに繋がってしまうのかもしれない。だからわたしはこれから、自己責任という考え方を否定することにする。