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親が離婚した時、わたしは「お父さんは北海道に転勤する」と聞かされた。何歳だったか覚えていないが、小学生になる前だったと思う。わたしはその嘘を長らく信じており、ある日突然、祖母が父のことを「前のお父さん」と表現したことに心の中で驚き、静かに事実を知ったのだった。 子どもは往々にして嘘をつかれたり、説明を省かれる。どうせ分からないから、こんなことは知らない方が幸せだ、などの理由で。もちろん悪気はないし、むしろ配慮でもあるが、わたしはそれが嫌だった。だから息子には言える範囲で説明
昨年、はじめて実の父親に会った。 はじめてというのはおかしな言い方かもしれないが、記憶上初対面なので仕方ない。自分が親になったから、会ってみたくなったのだ。それまで一度も会いたいと思ったことはなく、むしろすべての機会を断ってきた。母が苦労したのは全部、父親のせいだと思っていたからだ。恨むとまではいかないが、父親め、とは思っていた。ただ親になったことで、時々夫に「父親め」を向けてしまうことに気づいた。これはよくない。父親というカテゴリを嫌うくらいなら、いっそ個人を嫌いになろう。
先日、ハロウィンイベントに参加したときのこと。 キッズメイクが無料だったので、2歳の息子と並ぶことにした。10種類の見本を見せると、息子は迷わずハートを選んだ。ちょっと意外だったので、思わず「かぼちゃとかおばけもかっこいいよ~」と提案するも、「ハートがいいの!」とブレない。もう2度ほど聞いてみるも意思は固かった。 ふと、息子は以前からハートが好きだったかもしれないと思う。 そういえばこれまでも、出先でハートを見つけるたびに「ハートだよ」と嬉しそうにしていたではないか。ハート
幼少期の記憶がほとんどなく、家族で出かけた記憶はほぼ皆無だった。が、ひとつだけしっかりと記憶していることがある。大阪まで吉本新喜劇を見に行ったことだ。正直にいうと新喜劇は退屈だった。内容がというよりも、じっと座って何かを見る楽しさに目覚めていなかったのだ。弟とふたりで館内をウロウロしながら、母がひとり楽しそうに笑っている様子を不思議に思った。それが家族で出かけた唯一の記憶である。 それから30年くらいが経ち、最近になって母が小さい頃に水族館や遊園地など、いろんな場所に連れて
「学校は靴みたいなもの」 「日本の学校はワンサイズの革靴しかない靴屋みたい」 オーストラリアでシュタイナー(芸術教育)幼稚園に勤務する方の台詞だ。4か国の専門家ママが子育てについて話し合う会で出たが、頭から離れない。 さらに続いた「足を怪我してる子ども達が登校拒否になってるんじゃないかな」「無理やり合わない靴を履いて歩かされてるだけ」「さらに傷だらけの足でまた歩かされる」「この靴が履けない君の足はダメだねって言われる」という言葉に泣いた。 そして、こうきた。 「たしかに
優実と書いて「ゆみ」と読む自分の名前が好きだ。 シンプルに字面が気に入っているし、なによりいいのは、よくある名前なのに「ゆみ」と打っただけではすぐに出ない漢字なところ。 よく間違えられる「優美」という字に昔はちいさく傷ついたが、今はやりとりする5割くらいの人に間違えられることこそがいいと思うようになった。間違えずに送ってくれる人こそ、大切にすべき人だと思えるようになったからだ。だってきっと、わざわざ一文字ずつなにかの変換をしながら(たとえば優しい+実在とか)優実という字を作
うっかり幼児虐待の漫画を読んでしまった。Xに広告で流れてきたのだ。描かれるシーンは嫌な気持ちになるものばかりで、実在する現実だと思うと吐き気がした。見るんじゃなかったと思い、見ない選択ができる自分に罪悪感を抱く。そんな負のループを繰り返した後ふと、虐待を踏みとどまった多くの親がいることを思った。 親になって知ったが、育児をしていると気が狂いそうになる瞬間が多々ある。普通なら考えつかないような被害妄想に陥ることだってある。だけど多くの養育者は泣いたり狂いそうになりながら、それ
数年前の明け方4時ごろ。締めのラーメンをすすりながら聞いた言葉が、ずっと頭に残っている。「どうしてこんなに沖縄が好きなのか、いまだに分からないんだよね」。夫の先輩の言葉だ。沖縄に遊びに来ていて、せっかくだから一緒に飲もうということになった。 先輩はかなり沖縄が好きなようで、年に何度も訪れてはひとりであちこちを巡っているのだという。だからお開きが迫ったタイミングで「どうして沖縄がそんなに好きなんですか」と聞いたのだった。その日の会話はほとんど忘れてしまったのに、「分からない」
2歳になったばかりの息子が時々、よその子におもちゃを取られて悲しそうにしている。その顔を見るたび、忘れかけていた昔の記憶を思い出す。 小学3年の時だ。わたしの書いた交通安全の作文が入賞し、新聞に掲載されることになった。はっきりと覚えている。先生が「作文が新聞に載るよ」と伝えに来た際、続けて「少しだけ文章を直して提出するね」と言ったことを。その日の下校時間、職員室でなにかを書く先生の背中を見て、わたしの文章を直しているのだろうかとドキドキした記憶が妙に残っている。 直された
アンパンマンを嫌いになりかけた。 息子と初めてアンパンマンショーを見に行った時だ。数十年ぶりに見るアンパンマンは、子どもの頃とは随分印象が違った。悪さをするばいきんまんはたしかに迷惑な存在だけど、暴力でねじ伏せるアンパンマンもどうなんだろうと思ってしまったのだ。昔は盛り上がった「ばいきんまんをやっつけろー」の一体感が、とても怖いことのように感じてしまう。今のSNSの悪いところを見ているようだ。と、複雑な気持ちを抱えながらも、育児ツールとして頼る日々が続いていた。 そんなある