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「わからない」のはダメなことか-『ぼそぼそ声のフェミニズム』を読んで

栗田隆子さんの『ぼそぼそ声のフェミニズム』を友人からいただき読んだ。文章がとても読みやすかったので、読み終わるまでにそれほど時間はかからなかったように思う。しかし、本書の感想文を書くのは簡単ではなかった。書いては消し、書いては消しを繰り返したため、今回の感想文はまとまった軸のある内容にはおそらくならない。そのことをご了承いただければと思う。

さて、本書はタイトルからわかるように著者のフェミニズム的な実践を綴ったエッセイ集のようなものだ。著者自身は、「フェミニズム」という言葉とはっきり出会ったのは、女性センターのフェミニズム講座だと書いている。そして、講師である江原由美子さんから以下のようなことを学んだそうだ。

何より社会から「ダメ」と思われるような行動や考えが「本当にそれは、誰にとっての、どのような人間にとってのダメなのか」と疑えるようになった。いわば「ダメをこじらせない」「ダメであることを否定しない」方法を学べて、感謝してもしたりない。栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』p17~18(作品社、2019)

これは、本書の「はじめに」のなかにある文章だ。淡々とした調子で書かれているため、一度目に読んだときはそれほど気を留めていなかった。しかし、感想を書くために読み直すなかで目に留まり、実はかなり重要なことだと思った次第である。そのため、まずはこのことについて少し語りたい。

ダメをこじらせた私

著者と違い、私の人生はまさに「ダメをこじらせた」ことで、かなりねじ曲がってしまったように思う。地面にめり込むほどの自己肯定感の低さと、過剰なまでの自責的な思考から、自らの能力を積極的に潰してきた気がする。

私は非正規雇用で働き、ろくな稼ぎがない。また、雇用されること自体があわなさすぎて、個人事業主としても働いている。二つの仕事をで得られる収入を合わせても、人間一人が生活するには厳しい金額しか稼げない。

他人に自慢できるような実績も特にない。それでも、それはそれとして楽しく生きていればよかったのだろうが、私は自分をダメなやつだと否定し、これまで生きてきてしまった。

私だって、生まれたときから自分がダメだと思っていたわけではない。しかし、いつからか、何らかの価値観によって、自らをジャッジするようになってしまった。そういった価値観があまりにも自然に染み付いてしまったせいで、「なぜダメだと思うのか」を疑うことさえなかった。

そういったことを疑問に思えるようになったのは、つい最近のことである。そして、私の場合も、やはりフェミニズム的なものや男性学的なものを学ぶことで、ようやく「自分をダメだと思ってしまうこと」から、少しだけ距離を置けるようになったように思う。また、パートナーが私を勇気づけくれたことも大きい(パートナーには本当に感謝している)。

いずれにしろ、「ダメをこじらす」とは、字面から受ける印象以上に重大な影響を人生に及ぼすように(少なくとも私の場合は)思う。

「わからないことを抱え続ける」ことの重要性

これまた冒頭部分に書かれていることだが、著者は自身のことを「『わからない』ことを抱え続けるフェミニスト」と述べている。以下は本文からの引用だ。

私は世の中を理解し、啓蒙するフェミニストではない。切れ味の鋭い発言で相手を言い負かす、そんな姿とも縁遠い。いわゆるTwitterで論破できるタイプでもない。「わからない」ことを抱え続けるフェミニスト。とぼとぼ歩き、ぼそぼそ「わからない」とつぶやき、みんなの背中を眺めながら生きていく。でも、「わからない」と思うことは、既存の枠組みや、差別的なまなざしを突き放す力を持っている。先頭を突っ走る人から見えない風景や、そこからとりこぼされたものを、拾い集めながら、私をいたずらに否定するまなざしに対して「わからない」と突き放し、ゆっくり歩いていく。栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム』p11~12(作品社、2019)

このスタンスは本書のなかで一貫している。人間である以上を、世界のすべてをカバーすることはできない。必ずわからないことは出てくるはずである。それ自体は良くも悪くもないだろう。大切なのは、自分がわからないことについて、わからないことをなかったことにしたり、わかったふりをしてしまったりしないことだ。

だが、意外と上記のことを意識し続けることは難しいのではないかと思う。例えば、何かの事象について、SNSなどで断定的な意見を述べてしまうことは、自分のわからなさを棚上げしている可能性がある。わからないことをわからないまま抱えているのは、思った以上に大変なことなのだろう。

「自分は〇〇について十分にわかっていないのではないか」と常に感じていると、おのずとためらいや言い淀みが生まれる。鋭い意見を言うのは難しくなる。このような態度もまた、「ぼそぼそ声」にならざるをえない一つの要因ではないだろうか。そして、そういうぼそぼそとしたためらいや言い淀みを含む発話を、私はより信頼できるものと感じるのだ。

既存の物語に回収されないための「わからなさ」

本書では、著者が実際に体験したことを起点に、就活や婚活、就労や社会運動が抱える歪さを浮き上がらせている。これらの活動の場において、苦しめられている/苦しめられた人たちは少なくないはずだ。私も就活や就労に関しては苦い思い出がある。

しかし、私の場合は違和感を感じながらもそれをうまく言語化することができなかった。それは私のなかに「就活とは/就労とは、そういうものだ」という思い込みがあったからだろう。ある状況に対して、社会のなかで共有されている物語がある。知らないあいだに、その物語を内面化してしまうと、自分が苦しんでいたとしても、その物語のなかでうまく振舞えない/馴染めない自分が悪いと感じてしまいかねない。

これは冒頭で書いた「ダメをこじらせる」につながる話だと思う。つまり、その物語を刷り込まれることで、「それが誰にとってのダメなのか」を疑うことができないようにされている。

「就活がうまくいかないのは自分がダメだからである」「正社員としてフルタイムで働くことができないのは自分がダメだからである」といったように。果たして本当にそうだろうか。就活や就労、あるいは婚活や社会運動、あるいはさらに大きく社会全体の構造そのものがおかしいのではないか。それらの「誰かにとって都合のよい物語」に回収されないために、違和感のあるものを飲み込まずに、「わからない」と言って突き放す必要がある。

構造にすり潰されてしまわないために、「わからない」あるいは「その物語に馴染めない」という態度は、自分を守るために必須なのではないだろうか。それは自分が落ちこぼれていること証明ではなく、むしろ、この社会で誰かの都合のよい存在にならず、自分の人生を取り戻していくのに必要なサバイバルスキルのように思えた。

おわりに

今回、感想を書くにあたり、実は何度も何度も文章を書きなおした。本書にはとても重要なことが書かれているとは感じるものの、それをうまく言葉にすることができなかった。それこそ「わからない」「うまくまとめられない」をうなりながら、何度も何度も文章を書きなおしたのである。

だからといって、その時間が無駄だったかというと、そうではないだろう。生きていて、何かに思い悩む時間、自分のなかでうまく言葉にできない時間は、無駄ではないはずだ。むしろ、そのように立ち止まるからこそ、思考停止に陥らずにすむとも言えるだろう。

「わからないことを抱え続ける」とは、「わかったふりをしたり、わからないことを無視したりして思考停止をしない」ということだ。「成果が上がらない・結果が出ない=生産的でない・無駄」というのもまた、現代社会に流布されている物語の一つだろう。そういった物語に飲み込まれることなく、「わからない」を抱き続けたいと思う。

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