親子丼が億劫
大きいマフラーが億劫。
暑くなったな、いやまだ寒いかも、と迷うのも億劫。
やっぱり暑いか、と手に持つのも億劫。
他の荷物と合わせてどうやって持ったらいいのかわからなくなるから、億劫。
トイレの個室内に、ベンチの上に、すぐにおいてきてしまうポイントがたくさんあって億劫(チェックしてからその場を立ち去るようになった)。
大きなマフラーを付けたバージョンの「今日」を想像することが億劫。
ひとことで片付ければ、まあただのめんどくさがりだ。
たくさんの項目が押し寄せてくると、私はパンクする。何を把握していないのか、を把握できなくなる。
親子丼が億劫。
鶏肉は好き。
卵の味も好き。
玉ねぎ硬めに炒めたものも好き。
でも全部合わせて、甘みと塩味をさらに混ぜ合わせられると、舌と頭が混乱する。
おいしい。おいしい気がするのだが、飛び込んでくる黄色と茶色の混ぜ混ぜな景色と、舌が感じるものとがどうしても一致しなくて、めんどくさくなる。
めんどくさいと思うようなやつに、親子丼を食べる権利はないと思う。鶏に失礼だ。だからあまり食べる事に気が進まない。
また、親子丼にすると、調理の過程でもいろいろな事を考慮しないと増えるのだろう。
鶏肉単体を網の上で焼くという状況なら、
もしくはフライパンの上に開いた鶏もも肉を置いて、ジュージュー焼くという状況なら、その鶏は少なくともその焼いている人の思ういちばんのタイミングで、集中して見張られて、最も美味しく焼き上げられるだろう。
卵だって、卵焼きとなるとその世界の中には様々な流派さえ存在していて、自分はプルプル派だ、牛乳は多めで、だの、いやいや自分は砂糖をたくさん入れてほぼお菓子みたいにしたいんだ、子供の頃からそうでさ、というような主張さえ生まれる。
でも、鶏肉と卵が合わさった瞬間、
論点が大きく変わってしまう。
鶏肉を皮目からパリパリに焼くとか、卵はだし巻き風に、とかいう「どれだけ素材を美味しく」の話とは違うレイヤーに移動してしまう。
脳をふんわりとだまくらかす、甘辛な味にまとめ上げられた、ふわふわ、とろーり、よく分かんないけど美味しいものができあがる。三つ葉をかけてしまえば、それはびんのフタのようになぜか全てを完結させてしまって、覆い被せて、はい、召し上がれになる。
物によっちゃ鶏肉がパサパサだったり。
卵が固かったり。
でも論点は、既にそこからぶっ飛んでしまっていうから(そら美味しいものは美味しいんだろうよ。一流の親子丼ではなく世間一般的な親子丼の話をしたい)それらは取るに足らない問題となる。
私はとにかくそれらを単体で愛でたい。
一緒になってほしくない。
もっと味わうことができたはずなのに、と思いながら全てを一緒くたにして胃の中に押し込む作業は、したくない。
嫌いなわけではない。
食べる前と最中に、自分がぶつかるべき混乱を想像することが気を重くさせてくる。
そんなこと考えながら食べるくらいなら、本当に親子丼のことが心から好きな人に、私の一杯をあげてしまいたいとおもう。
食べ物の苦手ってそういう意味だ。
そんだけの話。