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ただここにあるということ

「自分の好きなところは?」
少し前に参加した哲学カフェで、そんなお題が出た。
他の参加者が人より上手くできることや自分が納得できるところなどを話していく。
「くらげさんはどうですか?」
わたしに話が来たので、こう言った。

「わたしは存在そのものが好きです」

恐らく、聞いていた人たち全員がよくわからなかったと思う。わたし自身も、しっかり言語化できていなかった。なので、今回は「存在が好き」ということの言語化を試みたいと思う。


わたしの体験

「自分は死ななければならないもの」

わたしは幼い頃から殴る蹴るなどの虐待を受け、学校では毎日「死ね」と言われるなどのいじめを受けていた。今思えば、そんなことはないと思えるのだが、当時はそれらを素直に受け取って、「自分は死ななければいけないのに生きている」と感じていた。

その時は自己肯定感が低く、慢性的な希死念慮がある状態だった。上手く死ねなかったから生きているという感じである。死ねもできないし、生きることも苦しい。そんな気持ちで殴られ、蹴られという日々を送っていた。

「なぜ、産まれたのか?」
「なぜ、生きているのか?」

答えの出ない自問自答を繰り返し、いつしか精神疾患を患ってしまった。
まだ小学生なのに、首を吊ってみたり、遺書を書いたりと、希死念慮は強くなっていった。

中学二年生の夏

希死念慮を持ったまま、中学生になったわたしはリストカットを覚え、自傷することで何とか生きていた。しかし、唐突に限界は訪れた。

いつものように晩ご飯を食べ終え、自分の部屋に入ったとき、窓が目に入った。
「落ちたい」
なぜだか、そう思ったわたしはそこから上手く落ちる方法を探し始めた。不思議と恐怖は無く、わたしは窓から屋根へ乗り、横になった。

気付いたら空中にいて、ドスッと打ち付けられた。

わたしはそのまま救急車に運ばれ、全治半年の重体であると診断された。入院してから、半年の自宅療養をすることに。
この経験を通して、わたしは死ぬことを諦めた。
「こんなに大変なら、わざわざ死ななくてもいいや」
なぜか、そう思えたのだ。それから、希死念慮はだいぶ薄くなった。

中学三年生の冬

変わらず希死念慮はあったものの、自殺未遂などはしなくなったわたしは無事、中学を卒業できるものだと思っていた。

ある日、とても眠い日があった。眠すぎて動けないくらい眠かった。その日を境に眠り続ける日が始まる。気づけば立てなくなり、座れなくなり、食べられなくなっていた。

「何かがおかしい」と思い、病院へ行くことに。小児科でずっと通っていた先生のところへ行きたいとわたしが言った。なぜだかは、わからない。

先生はわたしを見るとすぐに点滴をして、こう言った。
「大きい病院に連絡するから、ちゃんと元気になって帰ってくるんだよ」
先生が強くそう言うので、少し驚いていると続いて「わかった?」と言われた。わたしは「うん」と答える。先生はこのまま総合病院へ行くようにわたしたちに言った。

総合病院へ行くといくつか検査をした。わたしはもはや首が座らない状態だった。
検査でわかったのは、「脳腫瘍」があるということ。手術が必要で、今から入院しなければならないということだった。

手術までの時間は苦痛だった。身体はどんどん動かなくなっていき、視線を動かくのも辛くなった。
今は何日で何時で、朝なのか昼なのかもわからない。いつ手術日を迎えるのか。ずっと寝ているのもしんどかった、寝返りさえできず、ずっと仰向けだったのだ。そうしてわたしは意識がある間は同じことを考えるようになった。

「このままだと死ぬかもしれない」

そう考えるようになったら、急に「死にたくない」という気持ちが出てきた。必死だった。意識がある間はずっと「苦しいのは今だけだ、苦しいのは今だけだ、苦しいのは今だけだ…」と繰り返し頭の中で言っていた。

手術は無事に終わった。わたしは抜糸してから、すぐに退院となった。
この体験はわたしにとって大きなものになる。

なぜ生きているのか

わたしたちは自然である

ここまでに書いた体験とは、また違った体験を書きたいと思う。それは、「人は自然のひとつである」という体験だ。

それは、小学3年生くらいのとき、夕方ごろ家の近くにある空き地で過ごしていたときのこと。
青い空、白い雲、竹をカサカサと鳴らす風。しゃがんでみると、背中にあるコスモスが頭上にきて揺れる。
しばらく、そんな中にいたわたしはあることに気づいた。

「自然はわたしを否定しない」

ただ、ここにいることそのものを受け止めてもらえた。そういった感覚を得たのだ。これは後のわたしに影響する感覚である。
なんとなくそう思ったのではなく、明確に「そのままの自分について自然は何も言わない」ということを知った体験だった。

生きることに意味はない

わたしは上記の体験から人は自然に含まれるものであり、自然の一部であると考えるようになった。

そう考えると、生きていることに意味や理由を求める必要は無い。なぜなら、自然はそれらを求めないからだ。
人に説明するときは「生えている草木に『生きている意味』があると思いますか?」と訊いてみている。たぶん、草木と自分が同じものだと感じている人の方が少ないのだろうと思うけれど、そうとしか言えない。

生きることに意味はない。わたしたちは生きて、そして死ぬ。それだけのものなのだ。

「それだけのもの」について

上記にある「それだけのものなのだ」という締めくくりだけを見ると、ネガティヴに思える人がいるかもしれない。しかし、わたしにはそういった感覚はない。かと言って、ポジティブなものもない。
ただ、「生きて死ぬ」ということがあるだけのことだと言いたいのだ。

「生きて死ぬ」
それは言い換えれば「人生」だ。それに良いも悪いもなく、何もないのだとわたしは考えている。

生きることにいろんな思い込みや、考え、経験などが積み重なって、自分になるのだと思う。「人生」はそういった経験値をまとった基礎的な部分なのだと考えている。

好きなところ

「好きなところはなんですか?」という問い

ここまで書いてきたことを踏まえて、最初の問いに戻りたいと思う。
わたしは自然の一部であり、自然は善し悪しなどのない存在していることそのものである。そう書いてきた。

だから、「好きなところ」というものは無いのだ。わたしは自分に特別、好きなところを見いだすことをしていない。
他者と比較して優れているところに、好きも嫌いもないのだ。

そのため、この問いは他の参加者とは少し違う角度からの回答になったと思う。

存在していること

わたしが好きなところとして「存在そのもの」と答えたのは、強いて言えばという感じだった。
好きであるとかないとか、そういう問題ではないのだが、考えてみて出した答えがこれだった。

「存在そのものが好き」なんて言うと、自分のことがすごく好きなように感じられるかと思うが、そういうわけではない。しかし、嫌いではないので好きと言ってもいいのだろう。

まだ、「自分の好きなところは存在そのもの」ということについて深く掘り下げられていないような気がしているのだが、今はこれ以上、言語化できないとも感じている。
もう少し違う角度から考えてみることもできそうだし、もっと複雑なところもあるかもしれない。ここまで書いたことは表向きなものの可能性もある。
ただ、今の時点ではこういった理由になっている。

「好きなところは?」と問われると、他の人はどんなことを考えるのだろう。いろんな答えを聞くと、更に自分のことを考えるきっかけが見つかるかもしれない。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

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夢乃くらげ
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