あの日の交差点
「あたし、結婚します!」
あの日、町の小さな交差点で私はオオムラさんに言った。
オオムラさんはキキっと自転車を止めて私を見た。私も自転車を止めた。
「そう!そうよ、ふぐ子ちゃん!」
オオムラさんは力強く返してくれた。
オオムラさんは近くに住む少し年上の先輩。すでに結婚されていてお子さんもいる。いつも私の悩みを聴いてくれていた。なんでも相談した。泣きながらオオムラさんちのドアを叩いた日もある。
突然の結婚宣言。
別にそういうお相手がいたわけでもないのに。
それでもあの日あの交差点で、私はオオムラさんにそう告げた。
オオムラさんは「そうよ!」と言ったあと、歌ってくれた。
交差点で、2人頷き合った。
その少し前まで、誰も好きになれない私は、いっそ三十路デビューをしてやろうと、大金をはたいて脱毛エステに通い始めていた。せっかくシュッとしているんだから(当時)水着にならないでどうする!
近くに女性専用のマンションができ、内見に行ったりもした。
おひとりさまを謳歌する気満々だった。
なのに突然の結婚宣言。
なにがそうさせたのか。
ハッキリとしたきっかけがあったわけでもないのに。
住み慣れた小さな下町に訪れた、夕暮れのマジックだったのかも知れない。
オレンジイエローマジック。
まだ恋人もいない頃から、「恋愛は一生に一度、命がけですればいい」と思っていた。
そして20歳を少し過ぎた頃、私は恋に落ちた。恋をしたんじゃない。落ちたんだ。
「Fall in Love」と言うのは本当なんだと驚いた。一緒にいたい。ずっと一緒にいたいと思った。
でも私は未熟過ぎた。まだまだ自分というものが無さ過ぎた。
20代半ばで大失恋。何年も何年も痛みを引きずり回して日々を過ごした。
街で偶然見かけた元恋人の左手に指輪を見た日には、涙ってこんなに出る?と言うくらい泣いた。
交差点での結婚宣言。
それは、おひとりさまを楽しむぞ!と言いながら、ずっと失恋の痛みから抜け出せない自分との決別宣言だったのかも知れない。
知らんけど。
オオムラさんと別れたあと、私は清々しい気持ちで部屋に戻った。
前途洋々、希望に満ち溢れていた。
ま、そのあと結婚するまでに3年もかかるわけだが。
*
傍らには、夜勤に備え寝ている夫。
ふしぎな気持ちでその寝姿を見つめる。
そろそろ起こした方がいいかな。