【前編】人は孤独だからこそ生きていける、かも。

*予め断っておくと、この記事は「私には友達がいなくて孤独だけど、それでも一人で何とか生きていける」のような内容とは当たらずといえども遠からずといった具合なので、その点はご留意を。
(友達が殆どいないのは事実だけどね。)

 以下、本文。まず経緯から。


経緯

 ここ最近、私は小林秀雄を読んでいる。

 そのきっかけは、2023/05/09(火)放送の『爆笑問題カーボーイ』に遡る。

 トークの本題が何だったのかは思い出せないのだが、とにかくその日は、流れでいつの間にか小林秀雄の話になっていた。

 それまでにも、太田さんが著書やラジオで小林秀雄を引き合いに出すことは度々あって、少し惹かれる部分もあったから「ここらで一度触れてみるのもいいかもしれない」と思い立って読むことにした。

 ただ、内容がある程度難しいだろうことは話を聞いて想像ができていたので、挫折を防ぐためにも、事前に入門書はネットで軽く調べておいた。

 その結果、どうやら『考へるヒント』あたりが良いらしいことが分かり、これに決めた。

 いざ図書館に行ってみると、『小林秀雄全集』(新潮社)というものが全二十数巻あったので、まぁ大は小を兼ねるだろうと考えて、このなかから上記作品が収録されている数巻を借りることにした。

 大学生の懐事情には、図書館ありがたや。

現在

 そして現在に至る。

 いまもまだ読んでいる途中なのだが、ここまでの感想をひと言、正直に述べさせてもらう。

「難しすぎるだろ!小林秀雄、難しすぎるだろ!」

 これは私の教養の無さが問題なのか。

 全然入門書という感じがしない。言い回しや語っていることが難解で、ほとんどが理解できているのか怪しい。

 読んでいる最中は、まさしく「ちょっと何言ってるか分からないですけど」「なんで分かんねぇんだよ」(cv.サンドウィッチマン)の応酬である。

 本当に分からないんだよ。

 実際、美術や音楽に関する箇所などで「もう無理だ」と感じたところは、略読しまくりまくりだった。(24巻収録「ゴッホの絵」とかは面白かったけど。)

 出典を見てみると、これらの幾つかはどうやら新聞などに掲載されていたものらしいけど、当時の人々は普通にこれを読めていたとでもいうのか?

 そんな具合に、音を上げながら読み進めているわけだけど、何もこんな愚痴をわざわざ書こうと思ったのではない。

 ちゃんと本題に繋がりますから。

*ここまで読んで、「それなら私は(小林秀雄を)別に読まなくていいか」と思った方もいるかもしれない。
 そう、そこのあなたです。そうはなってほしくない。それでも一読の価値はあると思うんです。

分からないと面白い

 ここまで長々と、「分からない分からない」言いながら小林秀雄を読み進めていることを長々と書いてきた。
 そして、ここで疑問が湧く。

自問
Q.なぜ私は「分からない」ものをこれほど読み進められているのだろうか。

自答
A.それはきっと「分からない」ながらも、「面白い」と思えた箇所があったからだろう。

自問
Q.では、なぜ「面白い」と思えたのか。

自答
A.それはおそらく「分からない」ながらも、少なからず「分かる」と思えたところがあるからだろう。

 実際、よく分からないものとの間に、稀に「この文いいいな」と思える、分かる文が出てきたりする。

 しかし先にも書いた通り、言い回しなどが難解だから、小林秀雄の脳内にあった、本来書こうとしていたものを、私自身が正確に理解できている自信はほとんどない。

 「多分こういうことかな」というのを繰り返しながら、何となく分かったような気で読み進めていると言った方が正しい。

 つまり、本当のところは全部分かっていないのかもしれない。
 でも、面白い。

 分からないけど、面白い。

日常にある孤独

 本人が書こうとした、伝えようとしていた真意は分からないのに、「たぶんこういうことかな」と、ある程度の妥協をして受け取る。

 ここには一種のミスコミュニケーションが生じると思うのだけれど、これは何も本を読むときだけに限らないと思う。

 誰もが、日々の生活のなかで常に繰り返していることだ。
 逆にそうすることで、日常は成立している。

 たまに「私たちはお互いのことを何でも知ってるよね」なんて口走るカップルもいるけど、あんなのは嘘だ。現実、そんなこと出来やしないんだから。

 例えば、もしもいま目の前の相手が笑っていたように見えたとしても、実は心の奥底では人知れず傷ついているのかもしれないし、あるいは、もしも相手が私に同情して悲しんでいるように見えたとしても、実は心の裏で冷やかな笑みを浮かべているかもしれない。

 また、もしも二人で同じ景色を見たときに、その表情や様子から、自分と相手が同じ感動を共有できたように思えたとしても、その感動の程度や中身は異なるかもしれない。
 それは自身の感動よりも、よっぽど深くて広いものかもしれないし、あるいは、よっぽど浅くて狭いものかもしれない。

 所詮、表情や仕草、言葉なんてものは、相手を探るための手掛かりにしかなり得ない。

 その人を見るとき、その人の言葉を聞くとき、その人の背景を想像する。

 あなたは一体どこから来て、これまで何を見てきたの?
 その言葉は、その感情は、一体どんな経験に裏打ちされたものなの?

 察することしかできないけれど、反対に察することだけはできる。

 突き詰めると、人間は誰しも孤独だ。私が私でしかない限り、ある意味居るのは自分だけだし、他人のことはわかりようがない。

 わからないまま、わかろうとする。

 星野源に『Friend Ship』という曲がある。
 この曲は、氏のなかで私が一番好きな曲なのだが、その歌詞も上述と同じような内容を歌っているように思う。

君の手を握るたびに
 わからないまま
 胸の窓開けるたびに
 わからないまま
 笑い合うさま

星野源『Friend Ship』

でも、孤独だからこそ

 でも反対に、他人との完全な一致なんてできてしまったら、そんなもの誰しも耐えきれないとも思う。

 知らないからこそ、余白があるからこそ、やり過ごせることもあるし、生まれるものもあって、生きていける。

 つまり、人は孤独だからこそ、生きていけるとも言えるのでは?

 そういう内容を書こうとしたのだが、どうも本題に入るまでが想像以上に長くなってしまったので、ここで一度区切りたいと思う。
 すいやせん。
 
 続きはまた今度ってことで。

後編へ、つづく
*1ヶ月以内には更新予定
→もうちょっとかかります

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