#2 パーヴェル・フロレンスキー(訳:工藤順)「1937年、ソロフキ。最後の手紙」
「ゆめみるけんり vol.2」(2017年12月刊行)から、一部修正のうえ、転載します。
表紙デザイン:つぐみ
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モスクワ州ザゴールスク市ピオネール通り19番地
アンナ・ミハイロヴナ・フロレンスカヤさま
オスノヴノエ、リスト1
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ・フロレンスキーより
《1937年6月4日。ソロフキ。101通目の手紙。》
愛しいアヌーリャ。きみはたぶん驚いているね。ぼくからの手紙が少ないものだから。でもこれは、ひと月に二通しか手紙を書けないからで、きみに返事を書くために、ぼくはきみの手紙を待つことにしている。だから自分の手紙を控えているんだ。でもきみからの手紙は届いていない。要するに、めったに届かないし、届いたとしてもものすごく遅れて届くんだ。
ぼくは城塞のなかで生きている。「生きている」というか、「生存を引きずり歩いて」いる。ぼくが置かれているような条件で働くことは、まったく不可能だ。それと、ここはものすごく寒いから、外気にさらされたり、中庭に出ることもない。軽い風邪をひいていて、もう治ったけれど、今度は背中の治療をしている。紫外線光線による物理療法——つまり日光浴でね。だいたいのところ、病気は全部治ったよ(すっかり)。
最近は、旧ヨード工場を夜警することになっている。そこで自分たちで食糧をつくっていたのだ。そこでは、勉強することもできたのだろうけど(例えばいまもこうして手紙を書いているし)、死んだような工場のなかは絶望的に寒く、壁はなく、吹きすさぶ風が割れた窓ガラスから吹き込んできて、思いのままに勉強することができない。それで、筆跡を見ればきみにもわかるだろうけど、手紙を書くことさえ、このかじかんだ指ではうまくいかない。手紙を書けないぶん、あなたたちのことをよく考える。心配している。
生命は麻痺してしまい、いま現在ぼくらは、過去の何時よりもつよく、本土から切り離されたような感じがしている。もう6月だというのに、夏の兆しはまったくない。むしろ11月のような感じ。霧。霧雨。風。ごくたまに太陽がちらっと姿を現わすときでさえ、暖かくなることはない。ところが、これでも今年は春が早いほうで、だいたい二週間くらい先走っているという。
ぼくは、比較的耐えられる環境のなかで暮らしている。もともと私たちのところで働いていた人たち——ぼくにとっては、誰よりヴァーシャ、ミーシャ、フェーヂャたち——と比べれば、ということだけれど、もちろん、みんながそうであるわけじゃない。どんな場合であれ、もっと容易に仲間になれたであろう他の集まりよりも、こういう仲間の集まりは、断然よいと感じられるものだ。だが人が多すぎても、良い仕事を遂行することは困難なもので、ぼくらのところには40人くらいいる。でもこれにもそれなりに良い点はあって、なぜなら40人も一緒にいるときには、4人とか6人で一緒にいる時よりもずっと自分が孤独だと感じるものだからね。
博物館に通っている。なにがしかのアドバイスをして、展示品を引きずりまわす。その大部分はぼくが集めたコレクションで、旧ヨード工場から持ってきた図表だとかフレーム、調度品など、ありとあらゆるものがある。このミュージアムは活力ある状態だけれども、長く続くだろうか?
ぼくらの、あのソロフキの白夜の季節がやってきた。真夜中でもほんとうに明るい。夕方、太陽がたったいま沈んだばかりのよう。だってぼくらは北極圏にこんなに近いわけで、だから冬至のころには太陽は雲に遮られることもなく、絶えず木々の一群を照らしつづける。そして、太陽はぼくらの広漠たる眼前を、一直線に動いていく。ほとんど水平線と平行に。それからかなり近いところで、水平線の下へと沈んでゆく。
[中略](息子ミハイールに出した謎々の答え)
ね、もう朝の6時になる。せせらぎに雪が降っている。風は吹きすさび、吹雪が舞っている。がらんどうの建物のなか、壊れた通風口がパタパタ鳴り、侵入してくる風に泣き叫ぶ。ひとを不安にさせるような、かもめの鳴き声が運ばれてきている。全存在で、人間の無意味さ、ひとの行為、努力の無意味さを感じる。
5日だか4日に、4月28日にきみが出した13番目の手紙を受け取ったよ。もうきみに書いたけど、オーリャが庭園で働いていること、うれしく思う。あの娘が痩せてしまわないよう、なんとかしなければ。あの娘が余計な仕事をしなくてもいいように、もう少したくさん、栄養のあるものを食べるように。
愛しいひと、きみにしっかりとキスをします。今日は太陽が出て、あたたかくなってきた。
《1937年6月18日。103通目の手紙。》
愛しいアヌーリャ、最近あなたたちからの、一山もあるような手紙を受け取ったよ。4月、5月の手紙で、最後のは5月31日の消印だった。母さんからの手紙も受け取った。子どもたちは試験を終えて、今は休めるころじゃないかな。でもどうしたらいいんだろう、きみが、ほんの少しでも息をつくには? きみは疲れやすいから、とても心配している。それから、きみは絶対にお医者さんに行って、背中と脚を治してもらわなきゃいけないよ。だってあんまりひどく疲れやすいと、そのせいで仕事ができなくなるどころか、病気になって、ほんの少し頑張るだけでも苦しく、しんどくなってしまうよ。
きみたちと一緒に、子どものことを嬉しく思う。あぁ、悲しいことだ、ぼくはこの子がことばを話すところを目にすることもなく、話すこともないだろうから。
ぼくらの暮らしには、大きな変化があった。行き場もなく、城塞のなかに座っている。仕事がほとんどないからで、いつも通り中庭にはひとがひしめいている。こういう状況の中では、勉強することなんてできないでいる。これに関しては、努力はしているのだけれど。ぼーっとしていて、努力や注意力を必要とすることにはどうしても集中することができない。その一番主なものが、起床だ。
一つだけよいことは、最近は寒くないことが多く、太陽の光があるということだ。太陽が出ている限り、多くの人が日光浴をしていると考えてくれていいよ。もちろん、日は長くなっていく。昼夜を通して、真夜中でもほんとうに明るい。最近、ぼくは、海と遠くの島々のよい景色が見える、より人けのない一角をみつけた。だから窓越しではあるけれど、自然を眺めている。この一角は、三階にある、壁に設けられたガラス張りのヴェランダで、博物館の一部だ。
最近ぼくはほとんど毎日、博物館を訪れている。ある面では、数学を勉強するため。またある面では、展示や古代の展示品のデータについて、それから全般的に雑多な相談ごとについてアドバイスするためだ。特別に歴史的なものはない。15世紀終わりの品が少しあるだけで、あとは16、17、18世紀のもの。けれどよい書簡、うつくしい品々がある。
もしここから出ていくことになったら、この海から離れることを残念に思うだろうな。いまも遠くからしか見えないのではあるけれど。子どもの頃から、海からもらう印象は、ぼくにとっては一番親密なものだった。海を見ないと、ぼくは自分が分け前にあずかっていないように感じる。この感覚をもたらすのは何だろうと考えずにいるときでさえ、そう感じる。
きみは庭について、よくぼくに書いて寄こしてくれるね。あなたたちが緑と花々に近いところで暮らしていることが、ぼくには嬉しい。これは、きみにも、子どもたちにとっても、特に大切なことだ。だってあなたたちは森に行かないでしょう。ぼくたちの草花ぜんぶを追い求めて、ぼくは物思いに沈みながら、きみの手紙を辿ってゆく。なぜかしら昼間に夢をみた。ぼくはスコヴォロヂノに着いたところで、でもそこは荒廃してめちゃくちゃなものだから、心が痛んだ。
変化が怖い。ぼくにとって、確かな徴しは、決まった場所にいくらか馴染むこと、そしてその場所と調和することにある。いま、ソロフキの自然の中に入り込んで、それからわかりかけてきたのは、この状況は変わるはずだけれど、望ましい方向に——つまり極東に戻るという方向には向かわないだろうということだ。
いま、窓のまえのヴェランダに腰をかけて、一刻一刻、遠くにひろがる入り江、半島、島々の景色を眺めている。海は、鋼のように青い。一番近い入り江で、無数の光が踊り、弾ける。そしてわかったんだ。どうして写真に撮られたり絵に描かれたりしてしまうと、この無数の光が死んだものになってしまうのか。一つひとつ弾ける光は、点なのではない。そうでなくて、海から飛んでくる光の矢なのだ。この光の軌道は、一瞬にして生じ、消えてゆくのだけれど、これがありとあらゆる方向に飛び交い、生命あるグリッドを形づくっているんだ。(6月20日)
今日は、ポサードのことを思い出している。そこに行ったことがある、或る人と、ぼくとで。ヴェランダのガラスには、色がついているところもあって、くらい薔薇色のガラスを通してみると、海が濃い紫いろにみえる。めかしこんで、荘厳な様子だ。ぼくの追憶によく似合っている。
子どもたちには、ほんとうに素敵な感動と喜びとを経験してほしいものだなあ! きみは郊外へは足を運んでいるかな? 絶対に郊外に行ってほしい。あの小さな狭い小路(通りの名前は忘れてしまったけど)沿いに畑まで行ってヒバリのさえずりに耳を傾け、一面の穂を眺めるだけでいい。だってあんなに近いし、時間にしても30分以上はかからないでしょう。しっかりときみにキスします、愛おしいアヌーリャ、健康でいるように、元気でいるように、よく休むように気を遣って。S・Iによろしく言っておいてください。
【註】
一、地名について。セルギエフ・ポサード(ソ連時代はザゴールスク)は、モスクワの北東にある都市で、古い歴史をもつ。「黄金の環」を構成する都市の一つ。スコヴォロヂノは、シベリア・アムール地方の都市で、フロレンスキーはここで永久凍土の研究に従事していた。ソロフキは、白海に浮かぶソロヴェツキー諸島の略称で、ソ連時代にはここに、ソルジェニーツィン『収容所群島』で悪名高い強制収容所があった。
二、103通目の文中で、誕生後間もない「子ども」について触れられているが、孫のパーヴェル・ヴァシーリエヴィチ(1936生)のことだろうか。訳出した箇所は部分であるが、これが現存するフロレンスキー最後の手紙である。フロレンスキーは1937年末に銃殺された。
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[翻訳者より]
パーヴェル・フロレンスキー(Павел Флоренский; 1882-1937)は、ロシアの哲学者・神学者・数学者・科学者……と、書き始めると、肩書きのリストはほとんど無限に続いてしまうほどにマルチな才能を発揮した人である。雑誌掲載のものや関連論文を除けば、日本で手に入るのはパーヴェル・フロレンスキイ(桑野隆ほか訳)『逆遠近法の詩学 : 芸術・言語論集』(水声社〈叢書・二十世紀ロシア文化史再考〉、1998)の一冊しかない。(ちなみに水声社は反amazonの姿勢を豪気に貫いているため、入手するには書店店頭、又は取次等が行なっている通販サイトで注文するのがおすすめ。)
フロレンスキーは、晩年逮捕され、絶海の孤島ソロヴェツキー諸島での矯正労働に従事し、そこから移送される道中で銃殺されたと伝えられる。ここに掲載するかれの最後の手紙からは、収容所の窓からの景色が見え、音が聞こえる。わたしたちが自主隔離の窓から、子どもたちの声を聞くように。
[くどうなお:ロシア語翻訳労働者。詩と生活のzine「ゆめみるけんり」主催。https://junkdough.wordpress.com]