#8 井口政基「告白しうる真実」
「いま寄り添うためのことば」
という言葉を聴いて、
僕は柄谷行人という批評家の方が書いた、
ある文章を真っ先に思い出しました。
その文章は僕が最も影響を受けた文章の1つです。
5年くらい前に書いた自分史の中で、
その文章を読んで感動した経験について書いた箇所があるのですが、
「いま寄り添うためのことば」という言葉を聴いて、
柄谷行人さんが書いたその文章を思い出したのと同時に、
僕自身が自分史の中でその柄谷さんの文章を読んで感動した経験について書いた文章も思い出しました。
今回、
「いま寄り添うためのことば」として寄稿したいと思ったのは、
僕自身が自分史の中でその柄谷さんの文章を読んで感動した経験について書いた文章、
です。
最近も別の機会に、
何度か久しぶりに読んだ文章で、
僕にとっては大切な経験について
書いた思い出です。
以下に自分史を書いた当時のまま、
文章を転載します。
お読み頂けましたら幸いです。
——
僕は漱石の『こころ』を読んで得られた感動がきっかけで、
名作と言われる古典文学を文庫本で次々と読みました。同じクラスだった学生が読んでいると言っていた三島由紀夫の『金閣寺』や、太宰治の『人間失格』から読み始め、
トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』などを読んで行き、どれも面白くて、それまでの20年間の人生で足りなかった栄養を補給するように、次々と文学作品を読んでいきました。
やがて新書や人文・社会科学系の本も読むようになり、
その過程で読んだ斎藤孝さんの『読書力』の影響もあって、僕はとにかくたくさんの本を読みました。
本をたくさん読んで、
昔の人々が何を考え、発言してきたのかを知り尽くすまでは、
僕は何も言ってはいけないという気持ちがしていました。
漱石の
『こころ』を読んで、どうして感動したのか、よりはっきりと分かったのは、『こころ』を読んでから数年後、柄谷行人さんという日本を代表する批評家の方が夏目漱石について書いた論文を読んでからでした。
その論文には次のように書いてありました。
「告白しうる真実などはとるにたらない。漱石が告白しなければならないがゆえに告白しえない何ものかを所有していたことは明らかである。それが何であるか、私は知らないし、知りたいとも思わない。ネタが割れたとしても、たかだか自然主義的な「真実」にすぎまい。」
(柄谷行人『畏怖する人間』41頁)
僕はこの文章を読んで「これだ!」と思いました。
僕は産まれつきの障害が具体的に何であるのかを語れないという条件で生きてきました。語れないという条件で、それでも大きな障害を持って産まれたがゆえに抱えた悩みや問題意識を語ろうとしてきました。
けれど、その語ろうとして発した言葉はとても拙いもので、抽象的で、聴き手からすれば、雲をつかむようで、他人には伝わらないような言葉だったかもしれません。
柄谷さんの「告白しなければならないがゆえに告白しえない何ものかを所有していたことは明らかである」という言葉は、そんな僕や、僕のように語りたくても語れない苦しみを抱えた人々に寄り添うような言葉でした。
それをきっかけに柄谷さんの本を中心に批評系の本をしがみつくように読むようになりました。
——
[井口政基]
世界中を旅することを夢見ながら、
吉祥寺が好きな、
世田谷区に住んでいる一般市民。
視力矯正の不具合を抱えているため、
やりたいことが充分にやれず、
人生を前に進められずにいます。